平安時代の藤原氏の政治とはどんな類のものだったのでしょう

平安時代の藤原氏の政治

 

平安時代は延暦(えんりゃく)十三年、西暦794年から源頼朝(みなもとのよりとも)さんが征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されて鎌倉を拠点にして政治権力を行使するようになる建久(けんきゅう)三年、西暦1192年までの間、398年間、約400年間続いたということになっています。その400年間の間ずっとというわけでは全くありませんが、この時代の中で一時期藤原(ふじわら)氏という一族が政治的にとても大きな権限を持っていた時期があったとされています。中でも藤原道長(ふじわらのみちなが)という人物が活動していた時期は特に繁栄していた、そういった内容の話を社会や歴史の授業で教わることが多いことかと思います。平安時代の一時期に強い政治的権限を持っていた、その藤原氏というのはどのような政治をしていたのでしょう。自分たちの経済的利益が拡大するような制度変更をしたことやお寺を造ったという話はよく取り上げられますがそれ以上の何か日本国にとって画期的な政策を実施したといったわけではなかったようです。政治的な権限を獲得するために皇室の方々と自分の身内を結婚させて親戚関係となるような、天皇の母方の祖父という立場を利用して政治に介入するとか、政治的なライバルを策謀によって陥れて失脚させて藤原氏の立場を有利にさせるような、そういった権力を手中に収めるための話のほうがむしろ藤原氏の場合は注目されがちなようです。

 

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不輸、不入

 

藤原氏単独で実施した政策というわけでは全然ないのでしょうけれど、平安時代、西暦900年代頃には不輸の権(ふゆのけん)という特権が貴族の所有する土地においても確立されたそうです。摂関政治のもとで成し遂げられたと言われている特権ですから藤原氏も多いに関与した政策だったはずです。不輸の権というのは特定の土地から得られる収穫物に関しては朝廷に対して税を納めなくてもいいという権利です。税逃れの仕組みでした。朝廷の役人も税の取り立てのため頑張るため、今度は特定の土地に関しては朝廷の役人の出入りを禁止できる権利、不入の権(ふにゅうのけん)も認められていくこととなります。不入の権がたくさんの土地に関して申請され認められていくのは不輸の権が広まったあとのようですので当然これも藤原氏が中心となる摂関政治が大きく影響力を発揮したことでしょう。また藤原氏は摂政や関白という朝廷内の重要な役職におさまって朝廷の役職の任命権を握り重要な役職に藤原氏の関係者を就任させるようなこともしていたと言われています。

 

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お寺の建設

 

藤原道長という人は病気で苦しみ、後に出家、お坊さんになったそうですが、仏教と更に深く関わる立場になったということでお寺に関する建築物を複数造ったそうです。中でも有名なのは法成寺(ほうじょうじ)という寺院でした。ただよく火事に遭い、もうその建物は残っていません。道長さんのお子さんである藤原頼通(ふじわらのよりみち)さんも有名な仏教関連施設を造りました。現在では世界遺産にもなっている平等院(びょうどういん)、この施設を造ったのは頼道さんです。

 

外敵侵入

 

寛仁(かんにん)三年、西暦1019年、藤原道長さんが政治的に大きな権限を持っていた頃ですが、この時に中国大陸の民族、女真族が対馬や壱岐、九州北部に侵攻した刀伊の入寇(といのにゅうこう)と呼ばれる出来事が起きています。九州防衛のための機関、大宰府(だざいふ)の役人の方々や地元の武装した方々の活躍でこの侵攻を撃退することは出来たのですが、中央で政治を仕切っていた道長さんはこのことに関して何かとりたてて特徴のある対策を講じたという話は特に無いようです。

 

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今回は平安時代の藤原氏の政治に関して一部取りあげました。摂関政治と言われる、権力を握るための手立てに関しては社会、歴史の授業でもそれなりに詳しくやるように思うのですが、実際に政治権力を獲得した後、藤原氏がどのような政策を実行に移したのかについてはあまり印象になく、このようなテーマの記事を作ってみようと思いました。自分が所属する一族の権益が大きくなるような仕組みを作ったというのが特徴といえば特徴なのかなという気がします。一般の人々の中で貴族の荘園の土地に所属し負担の大きな税を納めなくてもよくなった人々が増えたというのであれば、普通の人々にとって多少は役に立った制度変更なのかもしれませんが、おそらく貴族の方々は一般の人々のためではなく自分たちの利益のために制度変更したのでしょうから立派、偉いといった称賛が贈られるべき話ではないのでしょう。政治に近付き自分たちの勢力が経済的に豊かになるよう制度を変えていこうとする話は藤原氏の摂関政治に限った話ではないのでしょうけれど、典型と言える事例ではあるのかなと思います。その後武士の勢力、平家も身内の人を皇族のかたと結婚させて親戚関係になり影響力を強めたといった話もありました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

鎌倉時代に実権を握った一族の行動について触れている話「北条家が執権を独占出来たのはなぜだったのでしょう」はこちらです。

江戸時代の老中がおこなっていた政治について触れている話「松平定信の寛政の改革とはどのような内容だったのでしょう」はこちらです。

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