蘇我馬子と聖徳太子はどういった関係だったのでしょう

蘇我馬子と聖徳太子の関係

古代の日本の出来事に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では蘇我馬子(そがのうまこ)、聖徳太子(しょうとくたいし)という二人の人物の関係について私なりに書いていきたいと思います。蘇我馬子さんも聖徳太子さんもどちらも大変有名な方ですが、念のため少し説明させていただきます。蘇我馬子さんは古代の日本、西暦500年代後半から西暦600年代前半に国内の政権で大きな影響力を持っていた人物です。当時の日本では天皇家の一族、皇族の他にも大きな経済力や武力をもつ一族、豪族が存在していました。馬子さんはそういった豪族の中でも特に力を持っていた蘇我氏(そがし)を率いる指導者の立場にあった人でした。どの皇族のかたを皇位に就かせるかについても口を出すことが出来るような政治的影響力を持った人です。聖徳太子さんはもっと有名ですね。昔の一万円、福沢諭吉さんの前の一万円の肖像は聖徳太子さんでした。日本人から大変尊敬されている人物と言えるでしょう。聖徳太子さんは皇族の一員だった方で、他のお名前としては厩戸皇子(うまやどのおうじ)も有名かと思います。用明天皇(ようめいてんのう)の息子さんとしてお生まれになりました。推古天皇の補佐役という政権内で非常に重い立場の役職を担当し有名な制度である冠位十二階やおもに役人を対象とした規則集である十七条の憲法の作成に中心的な立場で関与したと言われています。この蘇我馬子さんと聖徳太子さん、お二人はどのような関係にあったのでしょう。血縁としての関係がそもそも存在する間柄で、推古天皇が皇位にあった時代、政権運営にあたっては目立った対立をせずに活動していたようです。ただ馬子さんの立場を考えると聖徳太子さんに対する警戒感を持っていただろうという見方もあるようです。

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血のつながり

聖徳太子さんが推古天皇の補佐役として政権内で活躍する以前から、馬子さんは政治的な影響力を持っていました。馬子さんの了承のうえで聖徳太子さんが推古天皇の補佐役に就任したということのようです。馬子さんからすると皇族である聖徳太子さんは皇族の中でも蘇我氏との関係が強い人物と見なされていました。先ほど聖徳太子は用明天皇の息子さんと書きました。用明天皇(第31代天皇)は欽明天皇(第29代天皇)の息子さんなのですが、用明天皇の母親は蘇我馬子さんの姉妹にあたる人物なのです。そのため聖徳太子さんは馬子さんから見ると甥の子供にあたります。また、聖徳太子の母親は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)という方なのですが、この方も欽明天皇と蘇我馬子さんの姉妹のかた(用明天皇の母親とは別の方です)の間に生まれた方です。穴穂部間人皇女さんは馬子さんにとって姪にあたるかたなのです。つまり聖徳太子は馬子さんの甥と姪の間に生まれた子供ということになりまして蘇我氏と血縁的につながりの強い人物でした。また、聖徳太子自身は蘇我馬子さんの娘さんと婚姻関係にありましたので、馬子さんと聖徳太子は義理の親子という関係でもありました。

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政治的には

蘇我馬子さんは政敵を武力によって倒したり、時の天皇をこともあろうか暗殺してしまうような、保有した権力の維持のために過激な手段も選びかねない人物だったようです。しかし推古天皇の時代、聖徳太子さんが補佐役を務めていた間はこれと言って聖徳太子さんとの間で命を奪い合うような権力闘争は生じませんでした。推古天皇のもと協力して政治をおこなったと言われています。しかし聖徳太子さんが導入した冠位十二階や十七条の憲法は天皇を中心とした政治体制の構築を志したものだとも言われており、言い方を変えれば有力な豪族の政治的権限を弱めることに繋がる制度だったとも言えます。そのため有力豪族の代表格である蘇我氏のリーダー、蘇我馬子さんとしては聖徳太子さんが進める政策について一定の警戒感を持っていたのだろうという見方があるようです。聖徳太子さんは西暦622に亡くなったそうなのですが、その後の政権運営は蘇我馬子さんが中心となっておこなわれることとなります。聖徳太子さんが望んだ天皇中心の政治体制を推進するという気運は聖徳太子さんがいた頃に比べれば弱まったのかもしれません。

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今回は蘇我馬子さんと聖徳太子さんの関係について一部取りあげました。馬子さんと聖徳太子さんの間で戦が発生したという話は聞いたことがなかったのですが、かといって具体的にどういう関係だったかということに関しても授業などで習った記憶もなく、有名なお二人ですがどういった関係だったのか確認したいと思い今回のようなテーマの記事にしてみました。お二人は仏教を保護する政策を進める上で協力関係にあったという点も有名なようです。ただ聖徳太子さんが亡くなった後、聖徳太子さんの息子さんである山背大兄王(やましろのおおえのおう)が蘇我氏の指導者の一人、蘇我入鹿(そがのいるか 蘇我馬子の孫にあたる人)に襲撃され自害するという出来事が発生してしまいます。聖徳太子さんの息子さんなのですから蘇我氏との関係もあるかたなはずですが、もっと蘇我氏との関係が深い人物を皇位に就けるために山背大兄王は襲われたようです。当時の一部有力豪族からは天皇、皇族は自分たちの権勢を確保するために、権威として利用するもの、くらいの存在にしか思われていなかったということなのでしょう。本当の権威が無ければ惨めなことになり、本来上位の立場であるかたを凌ごうとする動きが出てきてしまうのですね。乙巳の変(いっしのへん)、大化の改新までそういった勢力が権力を持ち続けることになります。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

天皇を取り巻く別の時代の有力な勢力について触れている話「平安時代の藤原氏の政治とはどんな類のものだったのでしょう」はこちらです。

時の天皇と対立した別の時代の有力者について触れている話「足利尊氏さんと後醍醐天皇はどんな関係だったのでしょう」はこちらです。

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