聖徳太子が冠位十二階という制度を作った理由は

聖徳太子が冠位十二階を定めた理由

冠位十二階という制度が作られた理由について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では聖徳太子という人が冠位十二階という仕組みを作った理由について書いてみたいと思います。冠位十二階という制度は西暦603年、日本が飛鳥時代(いろいろ説があるようですが西暦592年~和銅三年、西暦710年までの時期)だったころに作られました。当時の政権で働くお役人さんの位(くらい)を12の序列(上位の順から大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智)に分け、それぞれの位で色の異なる冠をかぶることとしました。非常に偉い立場の役職の人はこの12の序列の対象外だったと言われています。この仕組みを定めたのは当時の政権で天皇の補佐役を担当していた聖徳太子さんだったと言われていますが、有力な豪族、蘇我氏の指導者、蘇我馬子(そがのうまこ)という人物もこの仕組みに関与していただろうという見方もあるようです(馬子さんは冠位十二階の対象外だったようです)。このような役人を序列化する制度をどういった理由で定めたのかについては天皇の政治的な権限を強めた体制を作りたかったからといったものや能力や功績によって人材を用いることが出来るようにしたかったから他国と付き合う上で役に立ったからといった理由が多く指摘されています。

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天皇の政治的な権限を強めたかった

先ほどの項目で触れませんでしたが、この冠位十二階によって天皇がそれぞれのお役人に位を与えるという仕組みになったようです。これはそれまでに比べ天皇がそれぞれのお役人の立場に口を出せることになったということであり、この制度が作られる以前の仕組みだと天皇はそのようなことが出来なかったようです。事細かな人材の配置については重用される豪族内で好きに決められていたそうで、天皇はどの氏族にそれを任せるか決める程度のことしかしていませんでした。天皇を中心とした、天皇に政治的な権限が集まる政治体制が望ましいと聖徳太子は考えていたようで、そのような理想の体制に近付けるという点では、天皇がそれぞれの役人の序列に関与することが出来るようになったことはとても望ましいことでした。

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能力や功績に応じて

基本的にそれまでの政権では身分の高い人々が役人として用いられるのが習わしだったようです。しかし冠位十二階という制度を導入することによって身分が今まで役人になっていた人たちほど高くない人材であっても能力が高く、良い仕事をしてくれそうな人材であれば役人として採用することが出来るようになったようです。また政権にとって利益となる仕事を成し遂げた人材には更に高い位を与えることとなり、働きによる評価も明確にすることが出来ました。政権内で役に立ってくれる有能な人々を集めたいという狙いがあったというのはこの制度についてよく指摘されているようです。

他の国と交流するにあたって都合がいい

また他の国に日本から使節を派遣して交流する場合、派遣される使節のお役人さんがどういった立場の人なのか他の国から見ても理解が出来るよう、納得がいくように示す必要があったからといった指摘もあるようです。身分のよくわからない人物が使節として派遣されてきたという場合と日本でとても位の高い立場にある人物が使節として派遣されてきたという場合とでは、位がはっきりしていてそれなりに位の高い人が使節として派遣されて来るほうが、派遣先としても「面子が保たれた(うれしい!)」と解釈してくれることが期待できます。

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今回は冠位十二階について一部取りあげました。十七条の憲法と並んで聖徳太子さんが関係したと言われる有名な政策でもあり、私も学校に通っていた頃習った制度だったのですが、この仕組みを取り入れた理由についてはよくわかっていなかったこともあって確認してみたくこのようなテーマの記事を作ってみました。冠位十二階導入の理由は天皇中心の政治体制にしたかったからといった十七条の憲法が制定された目的として指摘される内容と一部重複しているようですね。有能な人材を採用したかったからというのは学校でも習ったように感じますが、この点は確かに有能な人材を集めることが出来れば強い組織に変わっていくことが期待できるように思いますし、高い身分の人ばかり採用していた従来のやり方に比べて合理的なような気がします。他国と交流する上で都合がいいという理由についてはあまり聞いたことがありませんでしたが、言われてみると確かに侮辱されたと相手が受け取らないような配慮というのはあったほうが何かとうまく事が運びそうですよね。自分たちの国が世界の中心だといった考え(中華思想 ちゅうかしそうと言ったりするようです)を持った国を相手に交流した場合はこういった点(どんな立場の人間がやってきたのか)に特にこだわるものなのかもしれません。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

聖徳太子が関わってくる他の話題「聖徳太子による成文法と言われる十七条の憲法の制定目的は」はこちらです。

有力豪族が衰退したきっかけについて触れている話「乙巳の変いっしのへんと大化の改新の違いは何なのでしょう」はこちらです。

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