虎の門事件とは?この事件の影響や難波大助についても
虎の門事件とは
虎の門事件(とらのもんじけん)とは西暦1923年(大正12年)に当時摂政という天皇が幼少であられるとかご病気といった理由で天皇としての職務をすることが難しい場合、天皇に代わってそれを行う立場のかたのことですが、この摂政をされていた後の昭和天皇である、裕仁親王が襲撃された出来事です。この年の12月、国会(通常国会)が開かれるにあたってその開院式を行うしきたりがあり、その場に参加するため裕仁親王が皇居を出発されました。皇居近く、皇居から見て南の方角ですが、昔の江戸城の門で虎ノ門と呼ばれた門があり、かつてその門が存在していたあたりの場所を虎ノ門と当時も呼んでいました。裕仁親王が乗っておられた車が虎ノ門を通っている時暴漢が警備の隙をついて親王が乗られた車に向かって散弾銃を撃ちこんでしまいます。撃ちこまれた散弾は幸い親王には当たらずに済みましたが、おつきの方が怪我を負ってしまいました。午前11時前頃のことだそうです。散弾銃を撃った暴漢は警官や一般市民にすぐに取り押さえられ逮捕されています。裕仁親王は予定通り貴族院の開院式に出席され、その後このような恐ろしい襲撃事件の後ということもあり様々な要人と面会、お見舞いを受けました。その後は普段の生活に戻られたということなのでしょう。弟であられる雍仁親王(やすひとしんのう)や宣仁親王(のぶひとしんのう)といった方々とテニスをされたという話も残っているようです。
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虎の門事件の影響
治安当局はこのような皇族、しかも摂政という立場の裕仁親王に対する凶悪な事件が発生することを防ぐことが出来ませんでした。これを理由に責任をとって当時内閣総理大臣をしていた人や警察行政担当の大臣である内務大臣をしていた人が辞表を提出したり、警視総監をしていた人や他の警視庁関係者が民間で言う解雇にあたる懲戒免官となっています。裕仁親王は辞表を提出した内閣総理大臣に辞表を取り下げ首相職を続けるよう伝えたそうですが、決意は固かったそうで当時の内閣は結局退陣することとなりました。当時総理大臣をしていたのは山本権兵衛という人で、人々から大変期待されていた人物だったそうです。国会議員の選挙に一定年齢に達した男性が投票することが出来るという、普通選挙制度を実現しようとしていた政権でした。また懲戒免官となった警視庁の職員の中に正力松太郎という人物がいました。この人は後に全国紙となる新聞社のトップとなります。この事件の暴漢の父親は当時衆議院議員でしたがこの事件を理由に議員を辞職し自宅で謹慎を続け、1925年に亡くなっています。
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難波大助という人物
この事件で逮捕された暴漢は難波大助(なんばだいすけ)という人でした。元々家庭での政治的な立場の影響もあって皇室に対する敬意の念は大変強い人だったのだそうです。しかし現在の高校生くらいの年代になり、学校を転々としたり退学するなど学業で一定の成果を出すことが出来ない中、当時生活していた場が貧しい人達の生活を目にする環境だったこともあってか社会主義に関心を持ち始めたようです。その後一労働者として生活する過程で社会主義、無政府主義などに傾倒していきました。(無政府主義というのは個人の自由を確保することを尊重し、それを阻害するような国や宗教、君主制度といった世の中の様々な権威を否定する政治思想のことです。)虎の門事件の凶行に至った直接の理由は関東大震災の直後、戒厳令の下で複数名の無政府主義者や社会主義者の人たちが軍関係者によって殺害されたことだったという話もあります。逮捕後裁判の過程でもこの凶行について、本人は襲撃対象だった裕仁親王に対しては「気の毒の意を表する」としながらも、おこなった事については正当な行為だったと自分の考えを曲げず、死刑判決が出ることとなりました。1924年の11月、判決の通り刑が執行され死亡しています。
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今回は虎の門事件を取りあげてみました。大正時代、世の中に衝撃をあたえた出来事だったそうですし、これによって一つの政権(第二次山本権兵衛内閣)が退陣することとなった出来事でもあります。またなぜ難波という人物がこのような真似をしたのか動機を確認したいという思いもあって調べてみました。当時の大半の国民は、皇族に対し大変な敬意を持っていたでしょう。そのような風潮であったろう当時、皇室に対する反感を膨らませる言論は相当限られたものだったと思うのですが、その限られた言論が結果的には難波のような人間をうみ出してしまったようです。また無政府主義者、社会主義者に対する当時の軍の対応も影響したという指摘もあります。関東大震災直後、戒厳令下ということもあって無政府主義者や社会主義者を殺害したことについて、それを行った軍関係者が罪に問われなかった事例もあったそうです。大杉栄という無政府主義者が殺害された件については甘粕正彦という軍人が禁固刑になりました。政治的に敵対する人たちを殺害するという行為は、いずれ相手側による過激な行動を引き出してしまうことになりかねないようですね。江戸時代、大老井伊直弼公は安政の大獄で非常に過酷な処罰を多数の人々に行い、結果桜田門の外で過激な攘夷派の勢力に襲撃され命を落としました。難波の行為は当然批判されるべきですし許されるものでもありません。そして過去の出来事を見ても無政府主義、社会主義、共産主義を支持する気にはなりません。しかし、対立する政治勢力に対し非人道的な手ひどい扱いをすると後で自分たちに返ってくることになるかもしれません。そういった意味で政治的に対立している相手に対しては慎重な対応が望ましいという気がしました。かつてのソ連ではそんなことお構いなしにとんでもなくおびただしい人々が殺されてしまう結果になってしまいましたし、社会主義、共産主義に対する当局の危機感は当然だとは思うんですけれどね。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
政府の要人が襲撃された出来事に触れている記事「大久保利通とは?西南戦争での動きや暗殺事件について」はこちらです。
首相が襲撃された出来事に関する記事「浜口雄幸首相が狙撃された事件とは?事件後の容体についても」はこちらです。
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