大久保利通とは?西南戦争での動きや暗殺事件について
大久保利通さんとは
大久保利通(おおくぼとしみち)さんは現在の鹿児島県出身のかたで元薩摩藩士でした。江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍されています。江戸時代末期に薩摩藩で重用された人物で、藩の命令で京へ派遣され朝廷工作のために活動しました。
薩摩藩をはじめとした有力な藩と幕府が話し合って政治課題に対応することは困難であることが明らかとなってから、朝廷と江戸幕府の関係を悪化させ倒幕に傾くよう朝廷関係者にはたらきかけていた人たちのうちのお一人かと思われます。
明治政府誕生の貢献者として明治天皇のもとでの朝廷からは評価され、新政府発足後は政府の高官として活動しました。
岩倉使節団の一員として欧米諸国を視察しており、帰国後征韓論を巡って日本に残り政府の舵取りをしていた人たちと鋭く対立します。この時大久保さんは征韓論反対の立場をとりました。
明治政府から次々に新政府建設に貢献した重要人物が去っていく中、大久保さんは一時政府内で最高実力者と見られるようになるほど発言力を持つようになりました。西暦1878年(明治11年)に48歳で亡くなっています。
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西南戦争当時の大久保さんの動き
西南戦争は西暦1877(明治10年)に起こりました。大久保さんが亡くなる前年です。大久保さんは京都で政府軍を指揮したそうですが、九州での戦闘には参加しなかったんでしょうか、戦闘に関する情報は確認できませんでした。
九州での不平士族の武装蜂起については、これによって反政府勢力を制圧する機会を得ることが出来たと大久保さんが考えていた、という指摘があります。
西郷さんがこの戦争に参加することは無いだろうと大久保さんは見ていたようですが、西郷さんが西南戦争に参加していることを知って大久保さんは西郷さんとの会談を行おうとしたのだそうです。西郷さんに思いとどまるよう説得したかったということなのでしょう。
しかし伊藤博文さんらに反対されそのような会談は実現しませんでした。西郷さんとは薩摩藩士時代から親しい間柄でした。西郷さんがこの戦争で亡くなった知らせを聞き大久保さんは大変悲しんだそうです。
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大久保さんの暗殺事件について
先に書いた通り大久保さんは西暦1878年(明治11年)に亡くなっています。亡くなった原因は暗殺です。複数名の暴漢に襲撃され命を落としました。この大久保利通さんの暗殺事件は「紀尾井坂の変(きおいざかのへん)」とも呼ばれることがあるそうです。
大久保さんを襲撃した人たちは大半が石川県や島根県出身の士族の人たちでした。この襲撃事件を起こす前には台湾出兵に従軍することを政府に願い出たり、士族の人たちによって作られた反政府組織への政府の対応を批判する書状を政府に提出するといった行動をとっていたそうです。
彼らの満足するような反応は政府側からは無く九州や中国地方で発生したような武装蜂起を自らも起こそうと計画したそうですが、それも実現できず、このような犯行に至ったのだそうです。
犯行理由を記した文書には国会を開設しないことや役人として人材を採用するにあたり不正が見られること、日本のことを真剣に考えている士族勢力を尊重せず内乱が発生する結果を招いたこと、他国との不平等条約を改正しないことが批判されていたそうです。
当時内務卿という内務大臣のような立場であった大久保さんは自分の邸宅から明治天皇の居られた赤坂の御所へ向けて馬車に乗って移動している途中でした。この馬車は特に護衛をされていたというわけでもなかったようです。
士族からの反発も強かった時代であったというのにそんな警備体制だったんですね。
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自由民権運動が広がっていく最中の出来事として政府の重要人物である大久保さんが暗殺される事件は重要だと思ったのと、西南戦争を取りあげたばかりでもあるので今回は大久保さんについて取りあげてみました。
佐賀の乱で処刑された江藤新平さんについての大久保さんの所感と思われる一節を見た時には大久保さんについて冷酷な印象を受けましたが、人というのはそのような単純なものではありませんね。同志として行動を共にしてきた西郷さんが戦死した時には大変な悲しみようだったそうですし、家族を大切にするよき父であったという側面も今回調べていて垣間見ることとなりました。
当時の社会、特に士族の人たちから見るとひどい専制政治を大久保さんたちが行っていたように見えたのかもしれませんが、日本を欧米列強と対等な国とし独立を守り通すため近代国家としての日本の仕組みを整備することに貢献したお一人であることは間違いないでしょう。
大久保さんから言わせると早く国の仕組みを変えないと日本が欧米と対等な国になる前に日本が滅びてしまうかもしれない、という思いで、例えたくさんの士族にしわ寄せが来てしまう政策であったとしても断行したのかもしれません。
襲撃によって大久保さんを失ったことは当時の明治政府にとって大変な痛手となりました。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
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