信長さんがキリスト教保護の立場だった理由は何なのでしょう

信長さんのキリスト教保護の理由

 

信長さんは尾張(おわり 現在の愛知県西部にあたる地域)をまとめ、美濃(みの 現在の岐阜県にあたる地域)も勢力下とし、室町幕府第13代将軍だった足利義輝さんの弟である足利義昭さんに要請され、彼を室町幕府将軍とするために上洛(じょうらく)、京都に進軍することとなりました。義昭さんと共に信長さんが上洛したのは永禄11年、西暦1568年だったと言われています。室町幕府第15代将軍に就任した足利義昭さんを補佐する立場となった信長さんは室町幕府の勢力範囲となっていた近畿の一部地域においてキリスト教の布教を許可していたようです。信長さんが上洛した翌年の永禄12年、西暦1569年にポルトガル出身のキリスト教宣教師ルイスフロイスという人物と面会しました。宣教師からキリスト教布教の許可を求められたことに対し信長さんは都での布教を許したそうです。教会の建設も認めました。後の天下人である、信長さんの家臣だった豊臣秀吉さんや信長さんの同盟相手だった徳川家康さんのキリスト教政策は結果的にはキリスト教の布教を制限するものとなっていますが、そういった人たちのキリスト教政策に比べ信長さんの場合は寛大であったと言えます。信長さんがキリスト教を弾圧せず保護する姿勢をとった理由は何だったのでしょう。国内の一部仏教勢力の拡大を抑えるためだった、貿易による恩恵を維持するためだったなどといった見方が多いようです。

 

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仏教勢力を抑えるため

 

信長さんが上洛した当初はまだ激しい対立は起きていませんでしたが、北陸の大名である朝倉家や近江(おうみ 現在の滋賀県にあたる地域)の北部に領地を持つ浅井家といった戦国大名と争うようになってから特に仏教界の一部の勢力と激しく対立するようになりました。当時の仏教界でも大変な権威であった比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)というお寺のある地域で朝倉、浅井連合軍側に協力し信長さんに敵対したという理由で延暦寺の関係者を焼き討ちにすることがありましたし、一向宗の勢力とも長期間戦をおこなうことになります。信長さんは仏教勢力の一部が政治に介入することについて否定的だったと言われており、寺社勢力の経済利権を奪うことに繋がる政策(楽市)を進めたりもしています。政治に介入するような一部仏教勢力の拡大を抑えるため(政治介入する仏教勢力の信者が増えないようにするため)キリスト教の布教を認めてけん制しようとしたということのようです。本当の姿とは言えないような気もしますが信長さんが接した頃のキリスト教関係者は宗教活動自体に大変熱心で政治に介入する動きをそれ程示していなかったらしく、信長さんはその点についてキリスト教に対し好感を持ったなどとも言われています。一方、退廃的だった一部の仏教関係者の様子について信長さんが嫌悪していたという指摘は多いようです。

 

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貿易の恩恵

 

南蛮貿易(なんばんぼうえき)などともいわれるポルトガルや東南アジアを中継した交易は日本に無かった、たくさんの珍しいものを国内にもたらしていました。国外の品々に対する関心が強かった信長さんはこの交易を重要視し、貿易を維持するためにもキリスト教の布教を認めたほうがいいと考えていた、そのような見方も多いようです。ポルトガルは貿易による経済的な利益と引き換えにキリスト教の布教を要望する傾向にあり、キリスト教勢力を弾圧した場合、南蛮貿易が衰退する恐れもありました。この交易で得られる品の中には重要な軍需物資である火薬として使われる硝石(しょうせき)も含まれていました。日本で硝石を当時製造することは出来ず、すべて輸入品に頼っていたわけですから貿易相手に嫌われて輸入を止められては鉄砲を使いづらくなってしまいます。軍事力を整備するためにも南蛮貿易の継続は不可欠であり、貿易相手の心証を良くするうえでキリスト教を保護する政策は効果的でした。

 

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今回は信長さんの宗教政策について一部取りあげました。信長さんのおこなった政策はこれまでもいくつか取り上げてきましたが、秀吉さんや家康さんに比べ信長さんの対キリスト教政策は寛大だったという特徴があったようなのでどのような背景があったのか確認したくこのようなテーマの記事を作ってみた次第です。仏教勢力を弱めようとしたからという見方も貿易による利益を確保するという見方も理にかなっているような気がしました。ある勢力の勢いを削ぐためにライバルとなる勢力を支援するというやり方は別の時代にも見られます。江戸時代に幕府がいわゆる東本願寺派を支援して西本願寺派をけん制したということもありました。今後も歴史をさかのぼっていこうと思いますけれど統治者が似たような手法を使う事例が出てくるかもしれません。信長さんはキリスト教に対し厳しい姿勢を示すことなく世を去りましたが、記事を作っていて信長さんがその後も国内を治める立場として生き続けていたら秀吉さんが態度を変えたようにキリスト教勢力に対し規制を設けるようになったのではないだろうかなどという感想も持ちました。長崎が後にキリスト教勢力に寄進されてしまったように国内の様々な場所が他国の修道会などに乗っ取られては元も子もありませんので。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

秀吉さんのキリスト教関連政策について触れている話「秀吉さんがバテレン追放令を出した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

江戸時代のキリスト教政策について触れている話「江戸時代にキリスト教が禁止された理由は何なのでしょう」はこちらです。

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