前漢と匈奴の関係はどの様なものだったのでしょう

前漢と匈奴の関係

中国大陸にかつて存在していた王朝にまつわる話題、特に漢王朝の時代の歴史や他国との関係について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では劉邦さんが広大な地域の統一に成功し誕生させた王朝、漢(前漢)と匈奴(きょうど)と呼ばれる漢王朝の人々とは異なる民族で構成されていた勢力との間の関係について私なりに書いてみたいと思います。匈奴というのは中国大陸の王朝側が使用した呼び名で、侮蔑の意味が込められています(使用されている漢字からもそういった意味合いは感じ取れるように思います)。いわゆる漢民族とは異なる民族だったとされており、トルコ系だったともモンゴル系だったとも言われていて定かなことが判明しているわけではありません。羊などの家畜を放牧し移動しながら生活する習慣を持った人々でした。漢王朝が誕生する以前から中国大陸に存在していた王朝と戦ってきた歴史があるそうです。漢の前の王朝、秦も匈奴と戦っており、相当厄介だったのか、匈奴が秦に侵入してくるのを防ぐためにわざわざ壮大な防護壁、長城を建設してもいます。大陸の広範囲を統一するような強大な軍事力を持っている秦をも困らせるくらいの勢力、匈奴ですが、その後誕生した前漢とはどのような関係だったのでしょう。漢王朝が誕生してからそれほど期間が経過していなかった時期に双方が対立し戦いが繰り広げられ、その結果漢と匈奴の間で和議が結ばれます。和議により敵対関係とは異なる、漢、匈奴の二者が対等な関係となったとも漢が匈奴に従属する関係だったとも言われています。しかしその後、武帝という人が前漢の皇帝の座についてからは対立関係に戻り、衝突を繰り返していく中で匈奴は漢に追いやられていき勢力を弱めていくこととなりました。匈奴内での勢力争いも発生し複数の勢力に分裂。その中の一部は前漢に降伏し服従することとなったそうです。そのため前漢と匈奴の間では対立→和議により対等あるいは漢が従属→対立→匈奴の一部が漢に従属といった具合に関係が変化していったと言えます。これは紀元前200年から紀元前一世紀中ごろまでの期間の出来事であり、日本では弥生時代(弥生時代は紀元前四世紀ごろ~紀元後三世紀まで)にあたる時期の出来事となります。

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高祖さんの時代に和議

中国大陸の広範囲の地域を秦が支配していた時と同様、漢王朝も当初は匈奴と勢力争いをしていました。王朝側の見方によれば、匈奴は食糧事情が悪くなると王朝側に侵入し略奪行為をおこなっていたそうです。王朝を治める側としては匈奴に好き勝手なことをさせるわけにもいきません。漢の統治下にある国、韓の王様に匈奴を討伐するよう命令を出しました。しかし韓王は匈奴の勢力がどのような軍勢であるかを知ることで匈奴との戦を避けた方がいいという考えに傾きました。韓王が匈奴を討伐しないことで漢王朝の皇帝、高祖さんは韓王が敵側についたのではと疑ってしまいます。皇帝の疑念を払しょくするのは難しいと判断した韓王は匈奴側に逃亡。結局高祖さんが軍勢を率いて匈奴を討伐することにしました。これまで撃退するのにてこずっていたはずの匈奴ですが、評判に比べて手応えも無く匈奴恐れるに足らずと気を大きくした高祖さんは一部の将軍の進言も顧みず限られた軍勢だけで侵攻してしまいます。しかし高祖さんの軍勢はそれほど強くない印象であった匈奴の軍勢に侵攻した地で取り囲まれてしまいました。敵方の人物にわいろを贈り撤退のための隙を作ってもらうことで高祖さんは何とか自国の勢力範囲に逃れることが出来ましたが勝敗で言えば明らかな負け戦をしてしまいました。現在の山西省がある地域、平城という場所で行われたこのいくさは白登山(はくとさん)の戦いと呼ばれています。紀元前200年の出来事でした。家臣の意見もあり高祖さんは匈奴と交渉することとします。その結果、高祖さんの一族出身の女性を匈奴のリーダーの妻とするべく送り出すことや毎年決められた品々(食料やお酒、貴重品など)を漢王朝が匈奴側に贈る、といったことを約束し漢と匈奴は和議を結ぶこととなりました。この和議によって基本的には正面衝突する敵同士の関係ではなく対等、あるいは漢が匈奴に従属するといった見方もありますが、争わずに交流する関係となりました。そのような関係がしばらくの間続くこととなります。大陸の様々な国を支配下におさめている強国であるはずの漢王朝でしたから、かつてより侮辱していた勢力に敗れ、対等な(あるいは従属した)関係とならなければならなかったという点は屈辱であり、本来は自分たちが匈奴よりも上の立場にあることを望んでいました。それを示す動きがその後の時代に出てきます。

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ひ孫が戦いを挑む

漢と匈奴の関係が再び悪化するのは漢の皇帝が七代目の武帝さんとなった時代です。彼が皇帝に即位したのは紀元前141年。白登山の戦いから60年ほど経過した時期でした。武帝さんは漢王朝初代皇帝高祖さんのひ孫にあたる方だそうです。この方が即位してから10年以上経過した時期、紀元前129年以降、武帝さんは匈奴を討伐するための軍勢を立て続けに派遣しました。この派遣軍の将軍として衛青(えいせい)さんという方が有名です。この時の派遣軍は異民族が王朝の支配領域に侵入してくるのを防ぐための設備である長城を超えて相手の領域に侵入し匈奴に戦いを挑みました。高祖さんの時には煮え湯を飲まされましたが、衛青さんの出した戦果は大きく、武帝さんに高く評価されることとなります。もともと漢民族側の軍勢は多くが農業や商売などに従事していた人たちで構成されているのが普通だったそうで、武器の扱いに慣れた人たちではなかったそうです。それに比べて匈奴側の軍勢は普段から馬に乗ることに慣れている人たちばかりで、軍勢の多くは馬に乗って移動し馬に乗った状態で弓を射ることも出来るという、戦闘技術の高い人たちでした。馬に乗った状態で矢を放つというのは日本の歴史でも武士階級の人々が流鏑馬(やぶさめ)をやっていた絵など見かけますので意外さを感じないかもしれませんが、古代の中国大陸の王朝の戦い方とは大きく異なっていたようです。自分たちの所有する羊を放牧する際に馬に乗った状態で狼など、羊を狙う生き物から守る必要があったことから匈奴の人々は馬上での武器の扱いがおのずと上手になったのだそうです。そのような背景があり匈奴の軍勢の攻撃に苦戦することも珍しくなかった漢民族側でしたが武帝さんの時代の討伐軍は大勢の騎兵をそろえて匈奴に挑むこととなります。最初の討伐軍の時は1万の騎兵、その後の討伐の際は3万もの騎兵をそろえて匈奴を攻撃し、相手側に多大な損害を与えたと言われています。匈奴に対する侵攻は紀元前129年から紀元前119年までの間に七回実施されたそうで、この度重なる侵攻により匈奴も勢力を弱めていく結果となります。それでも勢力を保っていた匈奴でしたが紀元前60年頃に匈奴勢力内で分裂が発生。東西二つの勢力に分かれてしまいます。この一方の勢力、東側の匈奴が紀元前50年代半ばに漢に降伏し漢の属国となります。西側の匈奴は東の匈奴のように降伏はせず、漢との対立が続きましたが結局は漢と東匈奴の連合軍に追いつめられ紀元前30年代に滅びることとなります。武帝さんが匈奴と敵対する方針に転換してから90年以上経過していました。

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今回は劉邦さんが誕生させた漢王朝と異民族の匈奴がどういった関係であったのかについて取り上げました。世界史の参考書を読んでいると前漢については外交に関する記述、中でも匈奴との関係についての内容に多くを割いていたため、匈奴という勢力についてもう少し詳しく調べてみたくなり今回のようなテーマの記事を作ってみることとしました。匈奴については遊牧騎馬民族と説明されていることが多く、モンゴル人の先祖にあたる人たちなのか?と思いましたが、そういうわけでもないようです(個人的には強い遊牧騎馬民族と言えばチンギスハンに代表されるモンゴル民族くらいしか頭に浮かんできません)。馬を上手に操って軍勢を素早く動かすことが出来るというのは戦う上でかなり有利だったということを匈奴について調べていて知ることが出来ました。また高祖さんが匈奴に包囲されて戦いに敗れてしまう話についても今回初めて知りました。高祖さんが負けた理由が実際には何だったのか、正確な事情など私にわかるわけはありませんが、伝え残っている話によれば、敵は弱いと誤った判断をして攻撃を早まった高祖さんは、偽情報を相手につかませることに成功した匈奴側の罠にはまり匈奴軍に取り囲まれ孤立してしまいます。漢側が匈奴軍を偵察したところ匈奴軍の実際は軟弱であるという結果だったそうです。この偵察結果から高祖さんの軍の将軍たちは匈奴に侵攻するべきと判断しましたが、劉敬という人は「これは怪しい、敵に弱いと思わせようとしている匈奴側の罠だ」と考え高祖さんに攻め入らないよう進言したそうです。そんな劉敬さんの意見を高祖さんは相手にしなかったばかりか、軍の士気を弱めるものだと怒り劉敬さんを投獄したのだそうです。味方の大群が集結するのを待たずに少ない軍勢で匈奴を追った高祖さんの軍は、気付いてみると匈奴の大軍に包囲されていたという残念な結果になってしまいました。この敗戦で漢は屈辱的な和議を結ぶこととなります。この逸話からは高祖さんが油断したといった印象がやはり否めません。多くの将軍が匈奴を撃つべきだという状況であれば高祖さんが匈奴攻撃を判断するのもやむを得ないことでしょうけれど、味方の軍勢が集結する以前に飛び出して匈奴に攻め入ろうとするのは配慮に乏しい行為と言われても仕方のないことなのでしょう。もともと高祖さんは戦が得意ではなかったそうですから、能力の高い将軍の忠告を聞き入れて動くべきだったということになるでしょうか。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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中国大陸の王朝と日本のかかわりについて触れている話「古代の日本が遣隋使を派遣した目的は何だったのでしょう」はこちらです。

日本が中国大陸の王朝と戦った出来事について触れている話「朝鮮半島の戦、白村江の戦いに日本はなぜ関わったのでしょう」はこちらです。

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