唐王朝が滅亡してしまった理由は何だったのでしょう

唐が滅亡した理由

大昔の中国大陸で起きた出来事やかつて大陸に存在していた国、王朝の歴史、そして日本からも使節を派遣して交流していた大国、唐にまつわる話について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では隋王朝滅亡後、大陸の広範囲を支配し他国との争いに勝利して勢力圏を拡大していた大国の唐が滅亡してしまった理由について自分なりに書いてみたいと思います。前回の記事では王朝が混乱したり衰退した理由について一部触れましたが、衰退した理由の一つと言われる、皇帝の臣下による反乱、安史(あんし)の乱が発生したのが紀元後755年です。残存勢力が支配地域をそれなりに持ってはいたそうですが一応鎮圧したとされるのが8年後の763年でした。今回のテーマである唐滅亡ですが、滅んでしまったのは紀元後907年とされています。安史の乱で唐の力が衰えていったとはいえ、それから100年以上も後の出来事でした。直接的な唐王朝滅亡の理由というのは当時の皇帝がその時期大変な実力を持っていた人物から皇位を譲るよう要求され、皇帝がその要求に応じたことで皇帝一族による皇位継承が途絶えて唐が滅びるということになってしまいます。唐最後の皇帝は哀帝という方です。23代目の皇帝でした。22代目の皇帝は昭宗(しょうそう)さんという方です。皇位を譲るよう迫った人物というのは朱全忠(しゅぜんちゅう)という人で、唐が滅亡したあとはこの人が皇帝となった国、後梁(ごりょう)が多くの地域を支配することとなります。唐22代目の皇帝昭宗さんは実力者朱さんに殺害されてしまったのだとか。哀帝さんは皇位を譲った頃13歳だったそうです。先代が殺害された後での皇位禅譲の要求だったわけですし、朱さんのことが本当に怖かったことでしょう。どういういきさつがあってこの朱さんは皇帝に皇位を譲るなどという要求をしてしまうほどの存在になってしまったのでしょう。この朱という人が力を強めた理由は唐の中央が彼を重要な立場の役人に任命したからだと言えますし、朱さんが重要な立場の役人になることが出来たのは滅亡する以前の唐で発生した大規模な反乱事件で唐の中央が大きな手柄と認めるはたらきをしたからでした。この大規模な反乱というのが世界史の中でも有名な出来事の一つである黄巣(こうそう)の乱です。紀元後875年に発生した反乱でした。唐が滅びた時期、907年から結構さかのぼる出来事です。

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黄巣の乱

黄巣の乱の黄巣というのは人の名前です。黄巣という人は大陸の大きな半島、山東(さんとう)半島の存在する地域、山東地域で塩を闇で売買する商いをしていました。当時の唐の社会では唐の政権以外の立場の者が塩を販売することを禁じていました。塩の専売制という仕組みですが、そのため民間人で塩を商うのは法令違反となりますのでこっそりと商売する闇商人をやっていたということです。国内で反乱が散発する中、同じ闇商人の王仙芝(おうせんし)という人物が政治の腐敗や税負担が重すぎることを理由に掲げ山東地域で反乱を起こしたのですが、闇商人仲間の黄巣さんもこれに参加する決断をします。紀元後875年に反乱を起こし始めたのですが、途中で反乱中心人物の王さんが唐の中央政府から取引を持ち掛けられ反乱の矛を収めようとしました。刃向かわなければ王さんを唐の役人に任命するという話で、王さんもこの(王さんにとって)うまい話に乗ろうとしたわけです。黄巣さんは唐の政権の働きかけに乗ることに反対し王さんと黄巣さんは意見が合わなくなったので別行動することとなります。この反乱が起きた時代は経済的に追い詰められた農民の方々がたくさんいたため、黄巣さんの反乱活動にたくさんの人たちが合流していきました。この反乱勢力は農産物の生産が多い地域に移りながら略奪を繰り返していきます。長江の南側の地域や台湾の対岸地域などのいわゆる華南地方にまで移動した反乱勢力は大軍となった後に北上し国の重要都市である洛陽や都である長安に進軍しました。唐の軍隊はこの反乱軍の勢いを止めることが出来ず、黄巣さんの軍はとうとう都を陥落させてしまいます。紀元後880年、反乱蜂起から5年後のことでした。反乱軍のリーダーとなっていた黄巣さんは都を落としたことを契機に新たな国を誕生させます。大斉(だいせい)という名の国で黄巣さんはその国の皇帝という立場になります。唐王朝の皇帝はこの時僖宗(きそう)という方でした。黄巣さんの率いる軍が長安に迫ってきたため身の安全のため、長安から避難、西方の四川地方に移っていきました。一時的に避難した唐王朝の中央政権ですがこの後から巻き返しを図ります。かつて唐が滅亡させた国、突厥(とっけつ)の民族が率いる兵団の力を利用することにしました。

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反乱の平定とその後

都を陥落させて新しい国を建て、皇帝を自称した黄巣さん。しかし本格的な王朝と異なり、全国から税を徴収するような仕組みが確立されているわけでもなく、権力機構を支える人々をしっかりと養っていくだけの経済的な基盤が出来ていなかったと言われています。唐の中央政府もやられてばかりではなく、かねてから唐の北部を管轄する節度使(管轄する地域の軍団を指揮する役人)に任命していた李克用(りこくよう)という人物を頼り、黄巣さんを討伐する指示を出しました。命令に応じて李さんは軍団を動員し黄巣さんの国の支配地域に進軍します。李さんの軍団は大変強かったことで有名であり、黄巣さんの率いる軍は迎え撃ったものの敗退してしまいました。結局黄巣さんの勢力は都から撤退します。劣勢に立たされた黄巣さんの勢力からは形勢不利と見たためか唐王朝側に寝返るものも出てきました。寝返った人物の中で有名なのが朱温(しゅおん)という将軍格の人で、後に唐の皇帝から全忠の名を与えられることとなった朱全忠さん、この記事の最初の項目で登場している人物です。有力な武将も敵側についてしまい、ますます不利になった黄巣さんは元々の活動していた地域、山東に移っていきますがその先の展望が描けず自決することとなります。こうして黄巣の乱は鎮圧されました。紀元後884年のことです。反乱は鎮圧されましたが国内は荒廃してしまい、国を統治する立場の唐の中央政府の権威は大変低下してしまいました。国内の各地には唐の中央政府から節度使に任命された役人たちがいたわけですが、この節度使たちが好き勝手に軍を動かすようになってしまいます。それぞれの節度使の間で勢力争いが始まり、強い節度使はどんどん勢力を拡大していきました。唐の中央政府はもうそういった節度使の争いを制御することが出来ず、地方の一勢力に過ぎない存在となってしまいました。戦国時代のような状況となった結果台頭したのが黄巣の乱の後に恩賞として汴州(べんしゅう)という現在の河南省の一部地域を管轄する節度使に任命された朱全忠さんでした。黄巣の乱で反乱軍を打ち負かすにあたり大変な貢献をした李克用さんはこの朱さんの前に立ちはだかる宿敵のような立場だったそうですが、朱さんとの戦いの過程で劣勢の中、病となり命を落としてしまいました。こうして朱さんを止めることの出来る存在は国内にいなくなり最初の項目で書きました通り、朱さんは唐の若き皇帝から皇位を実際のところ奪い取って新しい国を建て、その国の皇帝におさまるのでした。

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今回は唐王朝が滅亡した理由について一部取り上げました。前回の記事で唐王朝が衰えていく理由を取り上げましたが、唐が滅んでしまう決定的な出来事とは別であったため、内容を扱う順番から言っても直接的な滅亡の原因が何であったのか確認したく今回のようなテーマの記事にしてみた次第です。今回の記事でも取り上げたとおり唐が滅んでしまった理由は黄巣の乱という大規模な反乱の発生とそれを迅速に収めることの出来なかった唐の政権の劣化の露呈、唐の中心となる軍の代わりに反乱を抑えた勢力の台頭につながり、台頭した勢力に国を乗っ取られてしまうということでした。そのため黄巣の乱がそれほど大規模な反乱に発展しなければ唐王朝の寿命はもっと長かったのかもしれません。黄巣の乱が大規模になってしまった理由の一つにはやはり窮乏に追いやられた人々の増加があります。安史の乱以降各地に配置された軍を指揮する役人、節度使は唐の中央に従わなくなるようになってしまい、各地で徴収した税を唐の中央にきちんと納めなくなります。経済的に傾く中央政府は所有する土地の広さに応じた税負担を課す仕組みや生活必需品である塩や多くの人々が消費するお茶を国だけが販売するという、塩や茶の専売制を導入して民衆からお金を徴収していきました。これによって塩や茶の値段がすごく上昇してしまい生活を圧迫したそうで、塩や茶の密売が盛んになってしまいます。税の負担が増え必需品の値段が上がってしまい、おまけに飢饉などが発生したこともあって生活の立ち行かない人々が増えていったということのようです。一般の人々の負担の増大を唐の中央政府はどうすることも出来なかったのでしょうかねぇ。ここまで中国大陸の王朝の興亡をいくつか見てきていますが、貧しい人々(多くは農業従事者だったことでしょう)が増えて反乱がひどくなるという経過をたどって国が亡んでいくことが結構あるように思います。一般の人々にあまり大きな負担をかけないで国を経営していくことは古代の大陸のような環境では難しい話だったのでしょうか。過去に扱った話では隋の初代皇帝は倹約する方針を取っていたことで農民にそれほどしわ寄せがいかなかったという話を見かけたように思います。皇帝にやる気があれば民衆の負担を軽くする余地もあったのかもしれません。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では写真ACで提供されている画像を使用させていただいております。

唐王朝の前に大陸を支配していた隋王朝の滅亡について触れている話「隋王朝が滅亡した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

日本の江戸時代に起きた反乱について触れている話「江戸時代になぜ大規模な一揆が島原で起きたのでしょう」はこちらです。

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