大坂夏の陣と冬の陣とではどっちが先だったのでしょう

大坂夏の陣と冬の陣・・・、どっちが先か

 

徳川家康さんが朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられ幕府を開いたのは慶長8年、西暦1603年と言われています。その2年後には家康さんの息子、秀忠さんを将軍として朝廷から任命してもらい、家康さんは前将軍の立場で政治を仕切るようになります。豊臣家に臣従していたはずの徳川家が武士勢力のトップである将軍の立場に就き続けてしまいます。豊臣秀吉さんの子供、秀頼さんは文禄2年、西暦1593年に産まれたと言われているかたなので、家康さんが将軍になった時まだ10歳だったと考えられます。幼少なので家康さんが将軍になるのは仕方ないかもしれませんが2年後に息子に将軍の座を引き継がせたことで豊臣側は徳川にはもう我々に臣従する気が無いのかと疑念を持ったことでしょう(秀忠さんが将軍になった時もまだ秀頼さんは12歳なわけですから実質的に将軍をやれるような状態ではなかったでしょうけれど)。実際に徳川家がどんな理由にせよ豊臣側と戦をして秀頼さんの命を奪ったのは元和(げんな)元年、西暦1615年、秀頼さんが22歳となる年でした。徳川方が豊臣家を攻撃した出来事は大坂の役(おおさかのえき)と呼ばれることもあるようですが「大阪~の陣」という呼び方のほうが有名な気もします。ただここで夏の陣と冬の陣2つの戦いが起きていたのですが、どっちが先だったのかわからなくなることがあります。少なくとも私の場合はよく迷ってしまうのですが、結論としては冬の陣が先で夏の陣が後ということになります。冬の陣が起きたのは慶長19年11月、西暦ですと1614年の12月でした(暦が違うので当時の月と西暦での月が異なってしまいます。わかりにくいですよね)。夏の陣は翌年の元和元年、西暦1615年の4月下旬から始まり5月に豊臣側が敗れ終結しています。ということで冬の陣が先であり、後のほうの夏の陣で豊臣秀頼さんは命を落とすことになります。

 

スポンサーリンク

お寺の鐘の話

 

とは言いましても、時系列だけ一度確認したとしても、頭に残りにくいということもあります。何か頭に残る手掛かり的なものはないのでしょうか。そもそも大阪冬の陣、夏の陣が起きてしまうきっかけは豊臣家が京都にある方広寺(ほうこうじ)というお寺に作ってあげた鐘(かね)に刻んだ文字でした。鐘に書かれている文章の中で家康さんの「家」の字と「康」の字を離して使っていることが徳川家に対する呪いをかけていることになるとか何とかいうことで鐘を作った豊臣家に対し家康さんは態度を硬化させることになります。家康さんは豊臣方に徳川に臣従するように、つまり徳川家の家来の立場になるようにとか、大坂の城から豊臣方は出ていくようにといった豊臣側が受け入れることの出来ないことを要求して戦になだれ込んでいきます。この方広寺の鐘の出来事はいつ発生したかというと1614年の7月でした。夏の時期に発生していたんですね。夏に関係が悪化する出来事が発生してしばらく関係修復を模索する期間があり、結局うまくいかず冬に両軍が激突するということになるわけです。夏に鐘の事件が起きて、即夏の季節に徳川方と豊臣方で武力衝突するというのは戦の準備もありますし、そんなに早く話が展開することも無いので夏の陣が先では話がおかしくなる。なので冬の陣が先という風に考えればよいでしょうか。ただ方広寺の事件が夏に発生した出来事だと憶えておかなくてはならないのでそこが面倒かもしれませんが。

 

スポンサーリンク

今回は大坂夏の陣、冬の陣はどちらが先なのかについて取りあげました。大坂の役に関係した記事を作りたかったのですが、夏の陣と冬の陣の順番が混乱して困っている方も結構おられるようなのでこのようなテーマの記事にしてみました。個人的には憶える手がかりが無いとなかなか頭に残らない気がしました。手掛かりになるようなこととしてお寺の鐘の事件が起きた季節の他には冬の寒さがいいかなという気もします。1614年の冬に徳川と豊臣、双方が戦うわけですが、最初の戦いでは大坂城の守りはとても堅く、なかなか決着がつかなかったわけです。

スポンサーリンク

家康さんが長期戦になるのは避けたいと和睦を豊臣側に持ちかけるのですが、家康さんが長期戦を避けたいと考えた理由として冬の寒さがあったという指摘もあるようです。確かに冬の寒い時期に大坂城を取り囲み続けるのも将兵たちにとっては過酷そうではあります。冬の寒さを理由に長期戦を避け、いくさを一旦終わらせようとしたという風に考えると最初は夏の陣ではなく冬の陣だということで頭に多少は残りやすくなるかもしれません。方広寺での事件の季節や長期戦を躊躇した冬の寒さの件で大阪の役の順番を憶えるという提案でしたが、いかがなものでしょうか。「全然参考にならないよ!」という方々がおられましたら、本当に申し訳ありません。<(_ _)>

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

江戸幕府が敗れた戦闘について触れている話「鳥羽・伏見の戦いとは?戦いが発生した理由や結末についても」はこちらです。

江戸幕府が敗れた第二次長州征討について触れている話「第二次長州征討の結末とそれに関わる幕府側の異変」はこちらです。

関連記事

ページ上部へ戻る