江戸時代に課されていた年貢の割合はどれ位だったのでしょう

江戸時代の年貢の割合

 

江戸時代に農業で生計を立てていた人たちは農産物が収穫されると、そのいくらかの割合を幕府あるいは藩、その領地を治めている組織に今でいう税的な意味合いで納めていたというのはよく歴史の授業でも扱われる話です。農民の方々が収穫した農産物をどれくらい納めていたのか。その割合については教科書的な話ですと四公六民(しこうろくみん)、五公五民(ごこうごみん)が標準的な負担割合だったなどと言われることが多いようです。四公六民は四が「おおやけ」、つまり領主に納める割合で六が「たみ」、つまり栽培した農民のものということです。40%が領主の取り分で60%が農民のものということですね。五公五民はその割合が領主に収穫量の50%、農民は残りの50%ということです。五公五民のほうが当然農民にとっての負担が大きいです。

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また、収穫量で納めるのではなく生産した農産物をお金に換えてお金で納めるというやり方をしていた場合もあったそうです。教育機関での授業内容としては農民の方々の負担割合はそれくらいであったということで理解しておけば良いのでしょうし、教科書でもそのように書かれているのなら受験でもそのような内容で対応したほうがいいと思います。しかし実際の農民の年貢負担が40%、50%だったかというと一律にそのような割合になっていたわけではなく、地域によって江戸時代の年貢の負担割合は様々だったとも言われています。鬼のような話にも感じ、聞いただけでそんな領地からは逃げたくなる気もしますが、八公二民(はちこうにみん)という割合の地域があったという指摘もありますし、標準的な割合と言われる四公六民、五公五民よりも軽い負担で済んでいた場合が多かったという見方もあります。実質的な負担割合は3割以下だったのではという指摘もあります。

 

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負担割合は低かったと見る理由

 

決まった地域からどれくらいの収穫量があるという調査は江戸時代以降、基本的に事細かくおこなわれていたわけではなく、江戸時代が始まる前の豊臣秀吉さんが日本を仕切っていた頃の調査結果もかなり使われていたそうです。その古い調査結果に基づいて年貢を納めることになりますと、同じ地域で農業の発展によって収穫量が時代を経ることによって増加したとしても納める量はあまり変わりませんので、本当は農民の負担はもっと軽かっただろうという風に考えられるわけです。また、農民の方々はお米以外に商品としてお金になる作物も実は熱心に栽培していたと言われていて、そういった作物による収益はかなりの額になっていたことも考えられます。江戸時代以降農産物の収穫量は相当増加したとも言われています。2倍くらいに増えたという指摘もあるようですね。新しい田畑を大規模に開発したという理由が大きいのでしょうけれど、同じ地域であっても小規模の新しい田畑の増加や肥料などの農業技術の変化に伴って収穫量が増えていたと考えるのはそう無理な話でもないように思われます。また領主側が年貢を徴収する地域を事細かく収穫量調査しようとすることに対し地元の農民の方々は反発もしていたそうですから、地域を治める側である領主としては民衆とのトラブルを避けたいという思いもあったのかもしれませんし、調査に大変な人手がかかることも収穫量調査を手控えたことと関係しているという指摘もあるようです。

 

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今回は江戸時代に納められていた年貢の割合について一部取りあげました。収穫量の4割から5割を持って行かれると農民の方々の暮らしがどうなるかということについては、個人的にちょっと想像しにくい所もあります。そのような負担割合が授業で教えられたのと並行して、農民の方々の暮らしは苦しかったという話もされていたような印象が残っていますから、「4割~5割持って行かれるとつらいんだぁ」という漠然とした理解だったような気もします。この記事を調べていて、1ヘクタールの農地を5人家族で栽培して暮らす場合、四割の年貢負担、つまり四公六民でも家族の食べ物が不足してしまう状況だったという指摘を目にすることもありました。その指摘によれば三公七民で何とか食べていけたということだそうです。そう考えますと八公二民ていう割合は一体何なのでしょう。普通に考えればやっていけるはずの無い負担割合ということになります。そんな負担割合がまかり通っていた地域があったということは公的な収穫量調査から漏れている相当な量の農産物が実は存在していたということを示しているのじゃないかという気もしました。厳しすぎる年貢負担を課して大勢の領民に逃げられてしまうと領主は年貢を納めてくれる人々を失うことになりますから結局ツケは領主である自分に回って来てしまいます。そうであるはずなのに敢えて八公二民にしていた地域があるというのですから、それで成り立っていたという見方も出来るわけで、一部に指摘があるように、言われているほど農民の方々の暮らしは経済的にひどいものではなかったということなのかもしれません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

明治時代に入ってからの税負担に関して触れている話「地租改正とは?内容や目的について調べてみました」はこちらです。

小作の方々の負担について触れている話「日本農民組合とは?小作争議や結成した杉山元治郎さんについても」はこちらです。

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