日本農民組合とは?小作争議や結成した杉山元治郎さんについても

日本農民組合とは

 

日本農民組合(にほんのうみんくみあい)とは西暦1922年(大正11年)に作られた全国規模の農民組合です。全国規模の農民組合が作られたのはこれが初めてのことでした。農民組合というのは農業をやっている人たちが作る団体のことで、このような組織は小作人の人たちが集まって出来た団体の場合、地主さんに対し小作人の負担を軽くするよう団結して要求していました。このような日本中あちこちで存在していた農民組合ですが、1922年に全国規模の大きな農民組合が作られたということです。この組織を立ち上げたことで有名なのは賀川豊彦(かがわとよひこ)さんや杉山元治郎(すぎやまもとじろう)さんといった方々です。日本農民組合は日本各地で行われた小作人さんの待遇改善要求について上手く交渉できるよう指導するという関わり方で参加し、地主さんへの圧力を強め、小作人さんたちの地位が向上するよう努めました。その後日本農民組合が中心となって関わる政党が作られますが、この政党運営で意見が分かれます。これを理由に日本農民組合は分裂することとなりました。

 

スポンサーリンク

小作争議とは

 

小作争議(こさくそうぎ)というのは小作人さんが地主さんに対し待遇改善するよう求める争い、活動のことです。具体的には小作人さんが地主さんに毎年支払う小作料を減らしてくれとか今年は全然収穫量が無いから小作料を払わないで済ませてくれといった小作料の減免です。小作人さんは地主さんの持っている土地を使わせてもらい農作物を育てます。農作物が収穫できますと小作人さんは収穫物の一定割合を地主さんに差し出す契約になっていました。小作料というのは小作人さんから地主さんに差し出される収穫物のことを言います。地域によっても様々なようですがこの小作料というのは場合によっては収穫物の50%以上ということもあったようです。半分以上持って行かれるというのは小作人さんたちにとっては相当厳しい条件でした。このような小作料の減免の他にも耕作権、地主さんの土地で農作物を栽培する権利のことですが、この耕作権が地主さんの意向で容易に小作人さんから奪われてしまうことも当時の世の中では横行していたそうです。いきなり小作人さん達が耕作権を奪われてしまったら、小作人さんたちは収入獲得の道を断たれてしまうことになってしまいます。土地が地主さんのものだとは言っても、そのような耕作権の取りあげは止めてください、ということも小作争議の重要なテーマだったようです。

 

スポンサーリンク

杉山元治郎さんについて

 

日本農民組合を立ち上げた方々の中のお一人、杉山元治郎さんは日本農民組合を設立した時期は大阪で働きながら社会運動に関わっていました。もともと大阪出身の方だったそうです。農学校を卒業後和歌山県の職員となったのですが、通っていたキリスト教教会関係者による戦争反対の演説が問題視されてしまい、杉山さんはこの件に関わっていたことで県職員として仕事を続けられなくなってしまいました。その後キリスト教牧師となり東北地方で牧師として活動するかたわら地元の農業従事者の方たちに農学の講義をされていたそうです。農家の人たちと接触する機会が多かった杉山さんはその窮状を改善するべきだという思いを強めていくこととなります。高名な社会運動家でキリスト教信者の賀川豊彦さんと知り合い全国規模の農民運動を行うことを目的として日本農民組合を設立することとなりました。上に書いたように日本農民組合は分裂しますがその後も全国規模の農民組合組織で指導者として活動しその組織を基盤として設立された政党の議員として国会でも活動することとなりました。第二次世界大戦時には様々な政党は翼賛政治会に寄せ集められますが、杉山さんも所属しています。それが理由で第二次世界大戦後戦勝国側の意向で公職につくことが出来ないという罰則を科せられてしまいましたが、それが解除されてからは日本社会党の議員として活動されました。1955年には衆議院の副議長を務められています。1964年に78歳でお亡くなりになりました。

 

スポンサーリンク

今回は日本農民組合について取り上げてみました。大正時代に入り労働争議や小作争議が非常に活発となっていた中で作られた全国規模の農民組合だったそうですし、小作人の人たちはどのような状況で生活していたのか今一つわからなかったので今回はこのテーマを調べてみようと思いました。収穫物の半分以上を地主さんに取られ、残った収穫物をお金に換えて余裕をもって生活出来るのであれば、小作人さんたちも地主さんと争おうとは思わないでしょう。現実は大変過酷なままだったため大正時代の小作争議件数は増加していました。日本国憲法で謳われているような基本的人権を尊重するという意識が希薄な世の中では例え国会が作られても、地主さんが生活に苦しい小作人さんから多くの収穫物を取りあげても規制する法律は作られなかったんですね。当時は比較的お金に余裕のある、税金を支払っている人々にしか衆議院議員選挙の選挙権が与えられなかったわけですし、貴族院は選挙民から選ばれなどしない国会議員で構成されていますから、小作人さんの声は国会に届きにくかったことでしょう。普通選挙法が成立してようやくそのような声が国会に届くようになっていったのではないでしょうか。ただ、地主さんの立場に立ってみると、地租として国に税金を納めなければなりません。現実的に地主さんはとことん減らそうと思ったら小作料をどれだけ減免できたのでしょうね。そんなに減らすこともできなかったんでしょうか。地租3%で江戸時代の4公6民(4割お上に納入し6割が自分のもの)と大体同じ税負担なんていう指摘もあるようです。いかに良心的な地主さんでも小作料を4割台に減らすとなるとなかなか厳しかったんでしょうかね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

杉山元治郎さんに関連する記事「労働農民党とは?党委員長や似た名称の農民労働党についても」はこちらです。

小作農の人たちが増加したことに関連する記事「松方財政とは?この経済政策が行われた背景や影響について」はこちらです。

関連記事

ページ上部へ戻る