江戸時代の打ちこわしとはどのようなものだったのでしょう

江戸時代に発生した打ちこわしとは

 

江戸時代にも他の時代と同様に自分たちの置かれた状況について不満を持った人たちによって問題となる行動が起こされる場合もありました。百姓一揆や打ちこわしといった呼び名は歴史の授業でもよく扱われていますが、それらの行為も当然不満を持った人たちの行動に分類されるものです。ここでは江戸時代におこなわれた「打ちこわし」とはどういったものだったのかについて自分なりにまとめてみます。「打ちこわし」というのは経済的にあまり恵まれていない、下流階層の人たちが集団で経済的に豊かな特定の商人や厳しい政治をおこなっている幕府あるいは藩の意向に従うようなお役人や庄屋さんの家屋を破壊する行為であり、暴動のようなものと言えます。暴動について説明しておきます。暴動には群衆が騒動を起こし社会の安定、穏やかであることを乱すような行為という意味があります。打ちこわしは他の人の家を壊すわけですから平穏を乱す行為ですので暴動という言葉は当てはまりますよね。打ちこわしが江戸時代に発生したのは1700年代以降と言われています。江戸幕府が始まってから100年以上経過した後の話ということになります。

 

スポンサーリンク

発生した場所

 

打ちこわしが発生した場所というのは江戸や大坂など大きな都市の場合が多かったという指摘があります。ただ農村で発生しなかったわけではありません。農村地域の庄屋さんや村役人が被害に遭う場合もありましたので。状況によっては全国各地で打ちこわしが発生するという時期もあったそうです。江戸時代の末期はそのような傾向が強まりました。

 

打ちこわし対象と理由

 

打ちこわしの対象になったのは上でも書いた通り一部の商人や役人、庄屋さんといった経済的に豊かか幕府や藩と近い関係にあった人たちでしたが、商人の方々への打ちこわしが典型だったようです。特にお米を取り扱う商人である米屋やお米を材料にして作る酒屋、お金に困っている人に高い金利でお金を貸す商人が人々の恨みを買いやすく打ちこわしにあったようです。打ちこわしが発生するのは飢饉などで食料となるお米などの価格が上昇して収入の少ない人たちが暮らしに困ってしまうような時でした。そういった時にお米を買い占める、売り渋るなどして販売する商品の値段を釣り上げて大きな利益を得ようとする商人がいようものなら当然生活に困っている人たちから恨まれることになります。飢饉や社会情勢が不安定になるとどうしても物価が上昇してしまい、たくさんの人たちの生活が苦しくなるので打ちこわしにつながったようです。

 

スポンサーリンク

一定の範囲

 

打ちこわしに加わる集団はどんな悪いこともやったということではなかったそうで、家屋の破壊にとどめることが多かったようです。つまりその住人に暴力をふるって怪我をさせるとか殺害してしまうというようなことはせず、無かったわけではないものの家財を盗むということも手控えられていたそうです。ただ蓄えられていたお米に関しては別で、奪い取って生活に困っている人たちの間で分配したと言われています。正当な価格なのかはわかりませんが、お米を奪って行く際にそれなりのお米代を置いていくような打ちこわしも中にはあったそうです。お米を奪うということの他に借金の証文(しょうもん 借金をしていますよという証拠の書類ですね)を奪っていくということもありました。ということで一定の範囲内の破壊行為のため、打ちこわしをおこなった人々が藩や幕府から極刑、死罪に処せられるということはなかったという指摘もあるようです。

 

スポンサーリンク

今回は江戸時代に起こった社会現象の一つである打ちこわしについて一部取りあげました。歴史の授業で聞いた言葉ではあるのですが、結局打ちこわしというのはどんな行為を意味していたのかよく覚えていないこともあり、このようなテーマで記事を作ってみることにしました。幕府や藩にそれなりの罰を与えられるということがわかっていても食べるものがなくては生きていけないということで他に方法が無く発生した出来事だったということでしょうか。統治している幕府や藩の積極的な救済策で生活に困っている人たちが何とかしのぐことが出来れば打ちこわしの件数も減少したのかもしれません。寛政の改革で松平定信という人がいざという時、貧しい人達の救済に使うために町のお金を一定割合積み立てさせたのはそれ以前に飢饉によって江戸での打ちこわしが多発したことが理由となっているようです。人々が苦しんでいる時に食事を提供しなかったという理由で米屋に限らず商人が狙われてしまうということもあったようで、経済的に豊かな人が貧しい人を救おうとしないのなら富んでいる者たちに罰を与えるべきだという考えが人々の中にあったという見方もあるようです。統治する側の救済策と適度な富裕層の負担が貧困層による暴発を減らす鍵ということになるのでしょうか。農業生産量や経済が安定していれば打ちこわしなどそもそも起きないのでしょうけれど、農業生産量の安定というのは当時の日本にとってそれまでに比べ農業技術が発達して新しい田畑が開発されていても難題だったんですね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

頻発した打ちこわしの後に実施された政治改革の話「松平定信の寛政の改革とはどのような内容だったのでしょう」はこちらです。

打ちこわしの引き金にもなった飢饉に関わる話「江戸時代には飢饉の対策としてどのような事をしたのでしょう」はこちらです。

関連記事

最近のコメント

    ページ上部へ戻る