元寇でモンゴル軍はどのような戦法や武器で戦ったのでしょう

元寇のときにモンゴル軍が用いた武器や戦法

 

日本の鎌倉時代に当時ユーラシア大陸の広大な地域を支配していたモンゴル民族の大国、元(げん)が日本に攻めてきた出来事、元寇(げんこう)。九州の北方にある対馬や壱岐といった島々で元の軍勢は日本の武士団を壊滅させ、戦闘員ではない地元住民の人々にも危害を加えました。島々を荒らしまわった後、元軍は九州の北部から日本本土への侵攻もおこないます。最初に元が日本を侵略したのは文永11年、西暦1274年でした(文永の役 ぶんえいのえき)。日本の武士が他国の勢力と本格的に戦争をおこなった数少ない事例なのですが、このときは日本国内でのいくさのやり方と異なっていたため元軍を迎え撃った武士の人々も戸惑ったようです。また当初の戦闘では日本側はとても苦戦したとも言われています。元の軍勢はどういった戦法、戦い方をおこない、どのような武器を使っていたのでしょう。元の軍勢は敵がどのような挑み方をするかに関わらず集団で対応したそうですし、特徴的な武器としては毒矢、火薬を使用した「てつはう」と日本側の呼ぶ、国内では全く普及していなかったものを使っていたと言われています。

 

スポンサーリンク

集団で戦い、見慣れないものを使用していました

 

元の軍勢は兵員が集団を形成し、向かってくる日本側の武士が1人であろうと集団であろうとお構いなく集団で攻撃を仕掛けてきました。少ない兵員に対してたくさんのモンゴル兵が取り囲んで攻撃するなどというやりかたは卑怯、といった意識をモンゴル側は持っていなかったようです。戦いの合図のために元側は金属製の楽器や太鼓を鳴らして兵員の集団行動を制御していました。元側は武器として剣や剣よりも攻撃範囲の広くなる槍(やり)のようなものを使用していました。当時日本側の兵員も剣はもちろんありましたが剣よりも攻撃範囲が広くなる武器としてなぎなたがあるくらいだったそうです。なぎなたよりも槍のほうが軽く扱いやすいそうで、元が集団で槍を使って攻めてくる戦い方に武士の人々は苦労したそうです。弓矢は元も日本も使用していましたが元の弓は日本のものよりも射程距離が長かったという指摘があるようです(元の弓の射程距離200m、一方日本の弓は100mだったのだとか)。そのモンゴル側が使用する矢には毒が塗られていた場合もあったようで日本側の被害を大きくしてしまいました。また日本側がそれまで使うことの無かった「てつはう」は元側が使った武器の中で特に有名です。鉄製あるいは陶器の器の中に火薬が入れられていて導火線がつながっているものなのですが、導火線に火をつけて相手側に投げ込み爆破させるような使われかたをしたそうです。「てつはう」の爆発による破壊力で敵を倒すというよりは爆発の音などで相手や相手の使用している馬を委縮させる効果があったようです。ただ委縮させるだけではなく、「てつはう」の中に金属片を入れて爆発時に周囲に飛び散らせ相手に危害を加えるような攻撃をおこなう場合もあったといわれています。

 

スポンサーリンク

日本の応戦

 

元軍の見慣れない武器、戦い方に戸惑いながらも日本の武士団は騎兵で集団になって元の軍勢に果敢に突入し応戦しました。元の軍勢は夜間に攻撃してこなかったそうです。その機に乗じて日本側は夜間元の船に乗り込み、元の兵員が休んでいる中、奇襲をかけ敵をほんろうしました。元の軍勢によって博多に大きな被害が出たのですが、武士団の必死の抵抗によって元が九州北部の内陸深くまで侵入することは防ぐことが出来たようです。その後天候の悪化によって沖合に停泊していた元の船団は被害に遭い撤収していったと言われています。これについては天候が理由ではなく「日本への脅し」という元側の目的が達成されたので撤収していったという見方もあるようです。

 

スポンサーリンク

今回は元寇でモンゴル軍がどのような戦い方をしたのかについて一部取りあげました。社会の授業でも当時の日本の武士と違った戦い方をしていたという話は聞いた記憶がありますが、具体的な話は火薬を使ったことくらいしか印象に残っておらず内容を確認したくてこのようなテーマの記事にしてみました。相手をよく知らない状態で戦闘にいたると戦いを有利に運ぶことはなかなか難しいものだということをこの「文永の役」の話を調べていて感じました。元はユーラシア大陸で様々な勢力との戦いを経験していたので、それに伴って武器、兵器を発達させる機会に恵まれていたのでしょう。日本国内でも時代が経過して攻撃範囲の広い武器としては「なぎなた」のような武器から軽くて使いやすい槍に移行していったそうです。戦いが起こるような状態に至る以前から相手をよく知るように努めるということは、自国を守る上でとても大切な心がけなのでしょうね。「孫子 そんし」という兵法、戦い方を説いた古代の書物の中の表現「彼を知り己を知れば百戦して殆(あや)うからず(敵を知り自分自身を知るならば何度戦っても危険なことはない)」が有名になるのもわかる様な気がします。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

モンゴル・高麗軍が侵攻してきた理由について触れている話「元寇が起きた原因は簡単に言うと何だったのでしょう」はこちらです。

元寇によって受けた影響について触れている話「元寇によって日本にはどのような影響があったのでしょう」はこちらです。

関連記事

ページ上部へ戻る