イギリスが中国に保有していた租界で発生する事件と影響

イギリスもかかわる中国国内の租界で発生した事件

第二次世界大戦以前の中国大陸で起きた出来事やイギリスの動向について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事ではイギリスが大きく関わる中国大陸内の租界で発生した事件やその事件がイギリスにもたらした影響などについて私なりに書いてみたいと思います。今回の記事で扱う租界で発生した事件というのは大正末期、西暦1920年代半ばに起きた出来事です。イギリスはこのサイトの以前の記事でも触れたとおり、日本がまだ江戸時代だった天保十三年、西暦1842年に自ら清王朝に仕掛けたいわゆるアヘン戦争に勝利して中国大陸の複数個所の港湾都市をイギリスも使用できるよう開港を清国に認めさせ、それに伴いイギリス人が港湾都市に流入し居留地区であり政治をおこなう権利がイギリス側にある租界(そかい)を設置することもその後清国に認めさせることとなります。それから80年ほど経過しその間に国内で革命が起き、清国は結果的に消滅してしまいました。その後誕生したのは中華民国という君主制ではない国。しかし国内各地では様々な軍事勢力が割拠し各々勢力圏を拡大しようとしのぎを削っていたため国が一つにまとまり政治をおこなうことが出来るような状況ではありませんでした。ただ中華民国内に存在する清国時代以来の欧州、米国、日本といった強国の権益については列強各国から中国に取り戻せという意識が中国国内の党派を問わず中国国民に広まり強まっていきました。そういった中国国民のナショナリズム、中華民国の真の独立や発展、中国国内の列強に奪われた権益の回復を求めるという、政治行動に結びつきやすい考え方が強まっていた中で生じた事件が大正十四年(1925年)5月30日に起きた5・30事件(ごさんじゅうじけん)という出来事です。この出来事により中国国民によるイギリスをはじめとした列強国に対する反発がより一層強まることとなりました。

事件と影響

日本の資本所有者が中華民国で企業を立ち上げ、工場を作り、中国人に労働してもらい製品を作り、その製品を販売して利益を得ることが当時盛んでした。ただ労働環境の悪い工場もあり労働組合が経営者側に環境改善の要求を求めストライキ、経営側の指示に従わず業務を停止するようなことも起きています。経営者側と組合側の対立は激しく5・30事件発生以前には租界の警察機関が抗議運動をする労働者側に発砲し死亡者も出てしまいました。ケガ人も出てしまい、警察側のやり方に反発する学生などの抗議活動が強まってたくさんの逮捕者が出ます。一部の逮捕者が釈放されないことで民衆による大規模な抗議運動に発展し警察側も強硬な対応に出てしまいました。警察の発砲により10人以上の人々が亡くなってしまいます。この警察の強硬な対応がおこなわれたのが5月30日であったため5・30事件と呼ばれることとなります。この事件が上海の多くの中国人の知るところとなり上海の多くの企業で労働者によるストライキが起き、学生も学校で学ぶのを拒否し抵抗活動に参加しました。その後上海にとどまらず他の大都市でも同様の外国勢力に対する抗議活動が行われ居留民を保護する目的で本国から派遣された各国の軍隊と対峙することとなります。派遣軍によって抗議をしていた民衆に対する発砲もおこなわれ中国国民の諸外国勢力に対する反発はさらに強まっていくこととなります。イギリスも中国国民の憎悪の対象となります。この中華民国国内の民衆の強い反発はイギリスも予想外だったようで民衆に対する強硬策の限界を感じたためか、イギリスは大正十五年(1926年)の12月には中華民国に対しこれまでの強硬な態度とは打って変わって二国間で結ばれていた不平等条約の解消を示唆するような寛容な態度を示すようになりました。

一部の権益を喪失

中華民国に対する姿勢を軟化させる動きに出たイギリスですが、中国国民の反英意識はイギリスの方針転換よってすぐに弱まったわけではありませんでした。イギリスの軟化姿勢表明からそれほど期間が経過していない昭和二年(1927年)の1月には中国大陸の大河、長江の中流域の港湾都市(河港都市)、漢口(かんこう)、現在は武漢市となっている地域をそう呼んでいたのですがこの地域に存在した租界や九江(きゅうこう)という、ここは武漢市より長江の下流側に存在する有名な港湾都市なのですが、ここにも存在していた租界が中華民国の国民政府によって一方的に取り上げられてしまいました。漢口で反英運動目的の演説をしようとした中国人とそれをやめさせようとした租界警備担当のイギリス兵の間で衝突が発生し、中国人側に怪我人が出ます。この出来事に怒った中華民国の民衆がイギリスの漢口租界に乱入しイギリス人の手に負えなくなります。結果的に中華民国国民政府の軍隊が混乱に乗じて治安維持の権限をイギリスから奪う形となりました。この漢口の出来事が波及し九江の租界でも同様にイギリスの租界支配権が国民政府に奪われてしまいます。この出来事の間にこれらの租界で生活をしていたイギリス人は虐殺されたり略奪されたりと大変な目に遭いました。民衆が租界になだれ込んだ後、中華民国の国民政府が租界に押し寄せた際、現地のイギリスの軍隊はあえて抵抗はしないで撤退し国民政府の軍隊に租界地域をまかせるという方針をとったそうです。戦えばイギリス軍側に多大な被害が出てしまう恐れがあったからなのかもしれませんが。その後中華民国とイギリスの間で交渉が行われ、2月に漢口と九江の租界はイギリス政府も承認して正式に中華民国に返還されることとなりました。この件でイギリスは中華民国を力でねじ伏せて自国の権益を守り抜くという態度には出なかったわけです。

今回は中華民国が誕生してからのイギリスの動向について一部取り上げました。先日第二次世界大戦が勃発する以前までの間に日英関係が悪化した理由について触れてみたのですが、その記事では日英同盟の解消や貿易、満州国をめぐる摩擦、対立を取り上げてみました。しかし他にも中華民国に対する姿勢の不一致についての指摘もあるようなのでその前提としてイギリスが中華民国で抱えていた課題を大まかにとらえてみたく今回のようなテーマの記事を作ってみた次第です。以前のようにイギリス側が武力行使をちらつかせたらあえて民衆側も強くは出てこないといった状況ではなくなりイギリス側も対応に手を焼いていたといった現実があって中華民国に対する方針転換をせざるをえなくなったようです。イギリス側の権益喪失を最小限にとどめるためにとられた現実的な対応ということなのでしょうか。民衆側の反発が強まった背景として中華民国のナショナリズムが強まっていたからという指摘は多いですが、共産主義勢力の浸透、抗議活動の指導の影響もあるように感じました。1923年以降中華民国国民政府の中心である国民党は共産党と協力する第1次国共合作(こっきょうがっさく)を承認していました。共産党は自分たちの勢力拡大を目的に国民党と協力するという作戦をとっていたそうです(後に国民党側が共産党勢力の拡大を脅威に感じこの第1次国共合作は解消されることとなります)。今回取り上げた530事件や漢口、九江租界を奪取した出来事の他にもイギリスはその後自国民の被害を受ける事件を経験することとなります。以前このサイトでも取り上げた1927年に発生している南京事件(なんきんじけん)です。リンクを下に載せておきますので関心のある方はそちらの記事もご参照ください。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では松竹梅さんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

本文で言及した1927年の南京事件について説明している記事「1927年の南京事件とは?この事件に関する日本側の対応も」はこちらです。

国共合作について触れている話「第二次国共合作とは?合作成立の理由や合作の崩壊についても」はこちらです。

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