織田信長さんと時の天皇の関係はどうだったのでしょう

織田信長さんと当時の天皇の関係

 

織田信長さんが本能寺の変で命を落としたのは天正10年、西暦1582年でした。その信長さんが足利義昭さんを将軍の候補としてまつり上げ京都に進軍、上洛したのは永禄11年、西暦1568年だったと言われています。上洛してから亡くなるまで14年くらいの期間になります。この頃天皇だったかたは正親町天皇というかたです。「おおぎまちてんのう」と読みます。この天皇の在位期間は弘治3年、西暦1557年から天正14年、西暦1586年まででした(29年間)。この方の次の天皇は後陽成天皇(ごようぜいてんのう)というかたです。正親町天皇の子供ではなくお孫さんにあたるかたです。ということで信長さんの権勢が強かった時代の天皇は正親町天皇でした。信長さんと室町幕府の将軍だった足利義昭さんは関係が悪化し戦(いくさ)までしていますが、別の権威である朝廷のトップ正親町天皇と信長さんの関係はどんな感じだったのでしょう。足利義昭さんをかついで上洛した後、室町幕府将軍との関係とは異なり途端に悪化するようなことはありませんでしたが、足利義昭さんを京から追放し室町幕府の滅亡を経て、信長さんの勢力が拡大した後、天皇と信長さんの関係は特に悪化していなかったという見方と対立が強まったという見方があるようです。

 

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足利義昭さんと共に上洛後

 

足利義昭さんを将軍とする目的で京に進軍した信長さんの軍勢は朝廷を守護するという大義名分も掲げていたそうです。守護する対象なわけですから上洛した後、信長さんは朝廷に対し金銭面で便宜を図るなど尊重する姿勢を示していました。戦国時代の朝廷は本来税を徴収するはずの領地が諸勢力に支配されてしまい、お金が入ってこなかったことで大変困窮していたのだそうです。お金に困っていた朝廷に資金援助してくれた存在は信長さんだけではなかったようですが、信長さんは一番支援してくれたようで、お金が無かったことでおこなうことが出来なかった朝廷の儀式も信長さんの支援のおかげで再開出来るようになったそうです。朝廷は信長さんに感謝しましたし、信長さんが諸勢力との戦いで和睦する際に仲介するような便宜を図る場合がありました。ということから信長さんと正親町天皇をトップとする朝廷は助け合う関係だったと見ることが出来ます。

 

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信長さんの勢力が拡大した後

 

信長さんが足利義昭さんと戦をして結果的に義昭さんを京から追放して室町幕府が滅び国内の様々な戦国大名を打ち負かして勢力を広げていった後、正親町天皇と信長さんの関係が悪化したという見方と信長さんの天皇を尊重する姿勢は続いたという見方があるようです。朝廷が信長さんに将軍、関白、太政大臣といった朝廷の非常に重要な役職に任命することを打診しても、信長さんがそのような官職を受けることを保留する態度をとったことや正親町天皇が天皇の座を譲位した場合に役職を引き受けるという返事を信長さんがした、などといったことが二者の関係の見方を分けることに関係しているようです。信長さんが朝廷の官職を辞退したことや正親町天皇の譲位を望んだということは別にドラマを面白くするためにでっち上げられた架空の出来事だったというわけではないようです。官職を受けない、譲位を望むという二つの点をそのまま見ると朝廷の意向に反しているように感じますが、正親町天皇や朝廷が他の皇族に天皇の座をむしろ譲りたいと考えていたと捉えている人たちもいるようで、そうなると信長さんのはたらきかけ(譲位を望む)は正親町天皇の意向に沿ったもので不敬な動きではないという解釈も出来るのだそうです。

 

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今回は信長さんと当時の天皇の関係について一部取りあげました。最近は信長さんに関係する記事を作っているのですが、以前見たテレビのドラマで信長さんが皇室制度を打倒するかのような発言をしていたのを思い出し、実際のところは信長さんと朝廷、正親町天皇の関係はどうだったのか知りたく、今回のようなテーマの記事にしてみました。信長さんの力が強まった後の天皇と信長さんの関係については今の時代であっても見方が定まっていない、意見が割れているんですね。ということで私が結論を出すような立場でもありませんし、感想を言うくらいのことしか出来ません。私なりの感想ですが、朝廷に真に忠実な態度を示すのであれば朝廷からの官職の打診があればおそらくそれ程間を置かずに受け入れるものなのではないだろうかという気はしました。そのため信長さんという人は心の底から勤皇といいますか、天皇を崇拝するような考えは持っていなかったんじゃないのかなぁなどと思います。信長さんが「将軍、関白、太政大臣職など恐れ多い」という理由で辞退するような謙虚な人なら、そもそも室町幕府将軍の足利義昭さんについて批判する文書を各方面に拡散するようなことはしないのじゃないかなと思いますが、信長さんはやっています。朝廷を凌ぐような物の考え方がいくらかはある人だったのかなという気がしました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

信長さんと室町幕府将軍の関係について触れている話「織田信長さんと足利義昭さんが対立したのはなぜなのでしょう」はこちらです。

天皇と江戸幕府将軍の関係について触れている話「江戸時代の天皇と将軍の関係はどうなっていたのでしょう」はこちらです。

 

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