大政奉還とは?行われた年号や坂本龍馬の関わりについても

大政奉還が行われた年号

 

大政奉還(たいせいほうかん)は1867年(慶応3年)に江戸幕府将軍徳川慶喜(よしのぶ)公が朝廷に伺いを立てて、朝廷から勅許、許しが出て成立しています。10月15日に朝廷から許しが出たそうです。

 

大政奉還とは何でしょうか

 

それまで国の政治を執り行う権限を江戸幕府は朝廷から任されているという形式がとられていました。この政治を行う権限を江戸幕府から朝廷にお返しするという行為が「大政奉還」の意味となります。

 

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なぜ大政奉還が行われたのでしょうか

 

1867年の後半は武力行使して江戸幕府を打倒するという機運が非常に高まっていたそうです。武力倒幕を進めようとしていた勢力の中心は薩摩藩や長州藩、朝廷内の一部の公家の人たちでした。

このような討幕勢力と江戸幕府側の間で武力衝突するのを回避する目的で大政奉還が行われたという指摘があります。

大政奉還すると政治権限が朝廷に移動することになります。このことによって幕府を倒して権力を奪うことを目的としている討幕勢力側は武力行使をする主要な理由が無くなることになります。

このように倒幕派の軍事行動をけん制する目的で大政奉還という行為が実行されたと言われています。

 

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坂本龍馬さんの大政奉還との関わり

 

この大政奉還については土佐藩の参政という非常に高い立場にいた藩士、後藤象二郎(しょうじろう)という人が土佐藩前藩主の山内豊信(とよしげ)公に提案しました。それが豊信公に受け入れられ、豊信公の名義で徳川慶喜公に意見申し立てが行われることとなりました。

慶喜公は土佐藩前藩主の申し立てを受けて京都にある二条城で集まることの出来た日本中の藩の上役たちに対して大政奉還について意見を聞いたそうです。

土佐藩の重臣であった後藤さんは土佐出身の坂本龍馬さんが立ち上げていた亀山社中という会社を土佐藩の関連組織とすることにした経緯もあり、この時期たびたび坂本さんと意見交換していたようです。今後日本がとるべき方針であると坂本さんが考えた政策の中の一つに「大政奉還」もありました。この坂本さんの大政奉還という案を後藤さんが大変評価し豊信公に進言したということのようです。土佐藩が将軍慶喜公に大政奉還をするよう申し立てたのは坂本さんの意見があったから、ということになるのではないでしょうか。

 

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今回は大政奉還について取りあげてみました。幕府に大政奉還するよう申し立てた土佐藩は山内家が藩主となっていましたが、この山内家は徳川家康から土佐を領地とすることを許された大名です。よって徳川家に恩がある山内家は薩摩や長州のような倒幕の動きに参加するのは抵抗があったということなのでしょうね。裏切り者と幕府側から非難されるのは土佐藩前藩主として耐えられないことだったかもしれません。豊信公にしてみれば倒幕派の動きを抑え徳川家を守る有効な方法が他には無かったということでしょうか。

このあと慶喜公は征夷大将軍の立場も朝廷に返上しました。軍を従えるという朝廷から与えられた権限も返したことになります。この行為も討幕勢力から幕府に対して攻撃する口実を奪うことが目的だったようです。

大政奉還や将軍という立場の返上が無かった場合はおそらく倒幕の密勅もありましたし薩摩長州を中心とした連合軍と幕府を中心とした幕府を支持する藩の連合軍の対決となって長州征討以上の大きな戦争となっていたのかもしれません。討幕勢力の連合軍は新式の兵器を取り揃えていたかもしれませんがすぐに決着がついたかどうか。ただ大政奉還したものの、その後には鳥羽・伏見の戦いや戊辰戦争は起こってしまいましたね。

現実に発生した以上の大規模な内戦を防ぐことに大政奉還は役に立ったのか、それともその後内戦が起きたわけですし、あまり意味は無かったのか。私には判断が出来ません。

江戸幕府が欧米の動向に注目し、他国の進歩した科学技術を積極的に取り入れ自己改革をする柔軟さを早くから示すことが出来ていれば、日本のその後の展開はまた違っていたんでしょうね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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