織田信長さんと朝倉義景さんが対立関係となった理由は

織田さんと朝倉さんが対立関係になったのは

 

織田信長さんは天下統一、国内の諸勢力を自分の支配下に収めるため他の戦国大名と戦をおこないました。そして戦に勝利して支配する地域を拡大していきます。信長さんに敗れ戦国大名としての立場を失い、命を落とした人もたくさんいるわけですが、そのような滅んだ戦国大名の一人に朝倉義景(あさくらよしかげ)さんという人がいます。北陸地方、越前、現在の福井県の一部にあたる地域を領地としていた戦国大名でしたが信長さんの勢力と戦い敗れてしまいました。亡くなった後の義景さんの頭の骨を使って信長さんが盃にしたとか何とかいう話も残っているようです。相当憎んでいなければそんなことはしないと思うのですが、信長さんと戦国大名の朝倉さんはどうして対立する関係になってしまったのでしょう。信長さん側からの指示に朝倉さんが従わないことで戦をする関係になってしまったようです。信長さんが室町幕府の将軍となる足利義昭さんをかついで京に進軍した後、朝倉さんの振る舞いによっては信長さんの盃にされずに済んでいたかもしれません。

 

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義昭さんが室町幕府の将軍になりました

 

信長さんが足利義昭さんをかついで京に進軍したのは永禄11年、西暦1568年でした。第14代室町幕府将軍がその頃病死したそうで、間もなく義昭さんは第15代の将軍に就任します。新しい体制となった室町幕府。将軍である義昭さんに臣下の礼をとる目的で京にあいさつに来なさいという意味なのだと思いますが上洛(じょうらく 京を訪れること)の指示を信長さんは朝倉義景さんに出します。しかし義景さんはこれに応じませんでした。2度義昭さん、信長さんからの指示があっても従わなかったそうです。これについては本来朝倉家に比べ信長さんの家系の格が上というわけでもないのに、そのような織田信長という人物の指示に従うのは嫌だったからという見方や当主である義景さんが領地を離れるのは領地内での反乱などを招くなど、領地を統治する上で混乱を生じさせかねないという心配があったからという見方もあるようです。幕府側の指示に従わなかったということを理由として永禄13年、西暦1570年に織田勢は朝倉側を討伐することとなりました。織田勢と朝倉側の戦はすぐに決着がついたわけではありませんでしたが、討伐開始から3年後義景さんは信長さんとの戦に大敗し自害することとなります。

 

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足利義昭さんと朝倉義景さん

 

義昭さんが将軍になった後、上洛(京に入って将軍になった義昭さんやそれを支援した信長さんにあいさつする)を拒んだ義景さん。将軍に対して無礼といえばそうなのですが、肝心の室町幕府のトップである将軍、義昭さんの方針も大きく変わっています。義昭さんと信長さんの関係が悪化してからは、将軍義昭さんは義景さんに対して信長さんを討伐することを要請する文書(御内書)を送ったりもしていたそうです。将軍の考えの変化によって義景さんが信長さんに対し反発する姿勢は反幕府という意味合いから幕府の意向に従うということに変化したわけです。朝倉さんは将軍の意向に従うという大義名分を持って織田勢と戦うことになりました。もともと義昭さんは将軍に就任するもっと前の時期に、京を支配していた勢力から身を守るために京から逃れた際に、越前の朝倉さんを頼りそこで匿ってもらっていたこともあった方でした。義景さんは義昭さんから共に京に進軍して将軍就任がかなうよう協力を求められたことについては消極的だったそうですが、義昭さんへの待遇は丁寧だったそうですので足利将軍家に対してはある程度義景さんも敬意を持っていたということなのでしょう。

 

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今回は朝倉さんがなぜ織田側と戦をすることになったかについて一部取りあげました。織田さんは天下統一を成し遂げようという立場ですから国内の有力な戦国大名は基本的に敵となり得る存在です。天下統一をしようという立場であれば、力のある他の勢力は自分の家臣、家来になる考えが無いのなら何らかの理由を持ち出して戦をして倒すしかないですし、このような場合、戦をするのに難しい理由など必要無いのかもしれません。ただ信長さんが勢力を広げる上で浅井家や朝倉家との戦いは重要だったでしょうし、彼らと戦をするにあたって何か大義名分のようなことが織田側にあったのか確認したく今回のようなテーマで記事を作ってみました。領国で内乱が起きないようにという理由ならどうしようもありませんが、織田家の格は大したことが無いからそんな人物に頭を下げたくないという理由で義景さんが上洛を拒んでいたのだとしたら、後に戦に大敗して自害しているので、あまりにも高くついた判断だったということになります。上洛を拒否したら戦になってしまうかもしれないということは想定していたんでしょうかね。織田勢と戦をしても撃退できると考えていたのでしょうか。すぐに上洛し臣下の礼をとっていたとしたら徳川家のように織田と協力関係を築いてその後発展する道もあったのかもしれません。相手の能力を見誤ってしまえば、場合によっては大変なことになってしまうと感じる出来事でした。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

信長さんの戦略について触れている話「信長さんが堺を直轄地にした目的は何だったのでしょう」はこちらです。

室町幕府将軍と信長さんの関係について触れている話「織田信長さんと足利義昭さんが対立したのはなぜなのでしょう」はこちらです。

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