平氏が福原京に遷都をしたのはなぜだったのでしょう

福原京に遷都したのはなぜ

平安時代の歴史に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では私なりに平安時代の後期、実力のあった武士勢力の平家がなぜ福原京という場所に遷都したのかについて書いてみたいと思います。遷都と言いましても福原京に移ったと思ったら一年も経たずにまた平安京に都を戻してしまっており、福原京自体もちゃんと完成していない状態だったという話だそうなので正規の遷都と言えるのか意見も色々のようですが、治承(じしょう)四年、西暦1180年に当時の天皇を伴って福原京へ大規模な異動がおこなわれたということで、この点は歴史事実として定まっているようです。この遷都を主導したのは平家勢力のリーダーだった平清盛(たいらのきよもり)さんでした。平家の人々が政治の世界で出世することが出来たのはこの人によるところがとても大きかったでしょうし、普段は平家の関係者の人たちも素直に清盛さんの指示に従っていたのでしょうが、この遷都に関しては反対意見が強かったようです。そのような中清盛さんはなぜ遷都を強行することにしたのでしょう。一部の勢力を政治の世界から遠ざけたかったためとかさらに平家の経済力を強めたかったためなどといった指摘が多いようです。

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遠ざけたい勢力

具体的には宗教勢力です。影響力のあるお寺があったそうで、平安京を都として朝廷が政治をおこなう際に何かと政治に干渉、介入、口出しをしていたため清盛さんはこれを問題視していたようです。そういったお寺が近くにある平安京から福原京に遷都して物理的にお寺との距離を置き政治に口出しされづらい環境を作ろう、ということで移動した、そのような見方が多いです。そういった遠ざけたいお寺としては延暦寺や興福寺、三井寺(園城寺)といった名前を見かけることが多いように思います。延暦寺は近江(おうみ)、現在の滋賀県にあたる地域に存在するお寺ですね。比叡山延暦寺。僧や寺の関係者が朝廷や上皇に強訴(ごうそ)したことでも有名なお寺です。興福寺は大和(やまと)、現在の奈良県奈良市にあたる地域に存在するお寺です。摂政や関白といった重要な役職を頻繁に担当していた一族、藤原家が造ったお寺です。このお寺もたくさん僧兵を抱えることのできる経済力の強いお寺でした。三井寺(みいでら 園城寺おんじょうじとも言います)は現在も滋賀県大津市に存在するお寺で皇族のかたが造られたといった指摘もあるようです。延暦寺から独立したお寺であるため当然権威も高いです。皇族のかたと連携を強めて源氏と協力し平家と対立したお寺として有名なようです。

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そういったこともあって源頼朝さんの時代以降三井寺は保護を受けるようになりました。福原京は現在の兵庫県神戸市の地域に存在していたので近江や大和から平安京(京都市)までの距離を考えると遷都した場合確かに先ほど名前を出した近江や大和のお寺は都から遠ざかることになります。遷都と直接関係あるか明言は出来ませんが同じ年に皇族の以仁王(もちひとおう)というかたが平氏勢力を倒すために平治の乱で勢いを失ったとは言え武士団として名高い源氏や多くの僧兵を抱えるお寺に挙兵の指示を出す出来事がありました。平家の台頭を快く思わない身分の高い人達は力のあるお寺と手を結んで平氏の影響力を取り除こうとしていたようです。

貿易の拠点

福原京は日宋貿易の拠点、大輪田泊(おおわだのとまり)に近い場所でした。福原京に都を移すことで貿易拠点である重要な港と近くなり、都への物資の供給がしやすくなりますし物の移動がより活発になることが期待出来ます。この時代日宋貿易で得られる利益は平家勢力に入っていたそうですから貿易をさらに活発にすることによって平家の権益を拡大させようと目論んだという見方もあるようです。

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今回は福原京に遷都した理由について取り上げました。唐突な遷都、そして短期間でまた都を平安京に戻すといった結果となったことを知り、行き当たりばったりな印象を持ったのですが、すぐ戻したのならどうしてそもそも遷都などしたのだろうと動機を確認したくなり今回のようなテーマの記事を作ってみることとしました。仏教勢力の影響力を排除したかったからといった見方が多いということを知ることが出来ましたが、こういった理由は桓武天皇(かんむてんのう)が平城京から長岡京や平安京に都を移した動機と重なりますね(あくまでそういう動機だろうという見方ではありますが)。実際に都を移した当事者が本当はどう考えていたのかはっきりとわかりませんが、邪魔な存在を避けるためにという理由で政権の拠点を移すというのは他の時代でも割と当てはまるものなのかもしれません。江戸に幕府を置いたのも朝廷(天皇、皇族、貴族など)からの影響を極力受けないようにするためといった見方はあるようですし。ただ室町幕府は当てはまりませんね。京都に幕府を置いたわけですから。明治維新が実現した後、天皇がお住いになる場所は京都から東京に変わりました。やはり何らかの勢力を政治から排除したかったという思惑が明治天皇の周囲にいた当時の権力者の人たちにあったのかな、などと記事を作っていて思いました。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

もっと前の時代におこなわれた遷都について触れている話「710年、平城京に遷都されたのはなぜだったのでしょう」はこちらです。

当時の天皇の指示による平安京への移動について触れている話「平安京に朝廷の拠点を移したのは何が理由だったのでしょう」はこちらです。

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