佐賀の乱とは?この反乱の首謀者や発生した理由について

佐賀の乱とは

 

佐賀の乱(さがのらん)は西暦1874年(明治7年)2月に九州の佐賀で明治政府の軍と反政府武装組織の間で生じた武力闘争です。武力衝突が発生してから約一か月という期間で収束しました。西暦1877年に発生した西南戦争までの間に九州や山口で反乱が起きることとなりますが、佐賀の乱はそのような一連の反乱に先んじて発生した士族の不満を象徴する出来事でした。反乱に参加した人数については諸説あるようですが3000人を下まわることはないようです。

 

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佐賀の乱の首謀者は

 

この反乱の首謀者についてですが、反乱組織の指導者ということであれば江藤新平(えとうしんぺい)という人と島 義勇(しまよしたけ)という人、この二人が有名なようです。両者とも元佐賀藩(肥前藩)のお侍さんで戊辰戦争に参加しています。新政府発足後は明治政府の役人となりました。江藤さんも島さんも佐賀の乱で政府側に捕えられ極刑となっています。

江藤さんは中央政府の役人として教育制度や警察制度、司法制度を作ることに大変貢献した方だそうです。征韓論を巡って政府内の反対派と鋭く対立し政府の役人を辞職しています。政府から東京に滞在しなければならないという指示が出ていた中、その命令を破り地元の佐賀に戻り反乱に結果的に参加することとなりました。本当は反政府組織が過激な行動をとろうとしているのをなだめるために佐賀に出向いた、という話もあるそうです。

島さんは政府の役人として北海道の開拓を指揮する仕事をしたり、今でいう県知事のような立場として秋田県の行政を担当する仕事をされたのだそうです。しかし政府の方針と島さんの考えが合わなかったようで政府の役人を辞められました。その後地元の佐賀に戻りますが地元の士族勢力から反政府勢力の指導者にまつりあげられ佐賀の乱に参加することとなりました。

 

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佐賀の乱が発生した理由

 

士族(江戸時代にお侍さんだった人たち)の権利が明治政府の時代に入った後徐々に奪われていったことが理由であるという意見はよく言われています。具体的には西暦1871年(明治4年)にお侍さんが刀を持たなくて良いという決まりが政府によってつくられたり、西暦1873年(明治6年)には徴兵令が出され一般国民の中から兵員を募ることとなりました。奇兵隊のような事例はあったものの、これまで基本的に軍隊の兵員を構成していたのは士族の人たちでしたが徴兵令という制度によりそのような仕組みではなくなりました。士族勢力の活躍する場が少なくなっていくことを意味していました。

また西暦1873年から秩禄(ちつろく)支給打ち切りに関する制度を政府は作り始めていました。秩禄は華族や士族の人たちにとってのお給料のようなものです。1874年の段階ではまだ希望者に対し秩禄支給を打ち切る代わりに一時金を支払うという程度のものでしたが、秩禄支給制度に関し多くの士族の人たちは今後も政府は支払ってくれるのだろうかという心配を持っていたかと思われます。佐賀の乱発生から2年後の西暦1876年、政府は否応なしに秩禄支給対象者に公債を与え、秩禄支給を打ち切ることとしています。この政策は秩禄処分と言われています。このように活躍する場やお侍さんにとって非常に大切なものである刀が奪われていく流れや、秩禄支給が続くのかどうかという心配で当時の政府に対し「士族はないがしろにされている」という強い不満が蔓延し反政府組織誕生の下地になったものと思われます。佐賀の乱発生の理由となったのではないでしょうか。

一般的な当時の士族の人たちが持っていた不満は以上のようなものだったと思われます。しかし佐賀の乱に関しては当時政府を仕切っていた人たちにとって政敵であった江藤新平さんを死に追いやる口実にするため仕組まれたものであったと主張する人もいるようです。明治政府が兵員を佐賀に派遣した理由は小野組という企業に佐賀の士族勢力が押しかけるという出来事が発生したからだったそうですが、士族勢力は強盗のような犯罪行為をしたのではなく借金のお願いのため小野組に行っただけだったと見る人もいるのだそうです。その説によるとこの出来事を理由に政府が佐賀へ派兵してきたため佐賀の士族勢力もやむを得ず戦わざるを得なかったというわけです。この説がより事実を正確にとらえているのかどうか私には判断出来ませんが、そのような視点で佐賀の乱を解釈する話はこれまで知りませんでしたので大変意外に感じました。

 

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今回は佐賀の乱を取りあげてみました。明治維新のような権力構造の変化によってかつて特権を持っていた人たちが没落していく→当然不満を持つ→だから反政府武装闘争が発生する、という流れについて特にわかりにくさはありませんでした。ただ別の解釈も知る結果となったため、佐賀の乱を不平士族の反乱だけで解釈してよいかどうかについてはよくわかりませんでした。

今回士族の人たちの不満の理由を改めて確認することとなりました。体制が変化したらお上に世話になっていた人たちはいつまでも身分保障されるわけではないんですね。お上から突き放される時が来るかもしれないから、もしもの時のために日々の糧を稼ぐための方法を他に見つけておいたほうがいいよ、というのが教訓になるのでしょうか。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載した写真に関係はございません。ご了承ください。

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