秦が中国大陸の広範囲を統一できた理由は何なのでしょう

秦が広大な地域を統一できた理由

中国大陸の歴史や過去の諸国の勢力争いの動きについて関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では大昔の中国大陸で様々な国々が争った時代、戦国時代(せんごくじだい)に割拠した勢力の中から秦(しん)という国が抜きん出て、やがては大陸の広大な地域を統一することに成功できたのはどうしてなのか、私なりに書いてみたいと思います。その前にそれまでの中国大陸の動きを簡単に振り返ってみます。確実に存在したとされる中でも最も古い王朝の殷(いん)が家臣の反逆、王の軍勢の敗北によって紀元前11世紀、紀元前1050年頃に亡び(ほろび)、新たな王朝、周(しゅう)が誕生します。この周王朝は長らく栄えることとなりますが、やがて衰え、異民族の侵入を許し、都を移動せざるを得ない状況に至り、諸国を従えるような覇権をもった大国の地位から転落してしまいます。これが紀元前8世紀、紀元前770年頃の出来事で、これ以降は春秋時代、戦国時代と言われる様々な国々が割拠する時代になります。春秋時代は紀元前770年頃から紀元前403年までの360年間、戦国時代は紀元前403年から秦が統一を成し遂げる紀元前221年までの間の180年間ほどの時代です。このように周が覇権を失ってから500年ほどの大変長い期間を経て秦が強大な力を持つ存在として諸国を統一することに成功したわけです。その間、秦を含めた様々な国々が生き残りをかけて必死に競い争ったわけですが、どうしてその中から秦が勝ち残り広大な地域を統一する結果となったのでしょう。秦が強国になることの出来た理由として、優秀な人材を用いることが出来たからといったことや自国を治める効率を向上させることができたからなどといった点がよく指摘されているようです。

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優秀な人材

当時中国大陸に群雄割拠したどこの国でも国の指導者、王様は当然自分の家来として優秀な人物を任用したいと考えたことでしょう。秦の王様もそのように考えていましたが、他の国とやり方が違っていたそうです。秦国が諸国を統一するよりもずっと前、400年以上前のことになりますが、当時の秦を率いていた君主、穆公(ぼくこう)さんは秦とは異なる国の人物を秦の重職に任命するなどということをしています。百里奚(ひゃくりけい)というかたが穆公さんに用いられた優秀な人材の中でも特に有名なようです。このかたは虞(ぐ)という国の人だとか楚(そ)という国の人だなどと出身国が調べていてもはっきりしませんでしたが、秦の人ではないことは確かです。百里奚さんが非常に優秀な人物であることを耳にして穆公さんは楚で奴隷となっていた百里奚さんを買い取りました。この百里奚さんはその後秦で宰相(さいしょう)、君主である穆公さんを補佐して政治をおこなう重職についています。また斉(せい)という国の人であった蹇叔(けんしゅく)さん、このかたは百里奚さんの友人なのですが、このかたを百里奚さんは穆公さんに非常に優秀な人物として紹介し穆公さんは蹇叔も任官して重く用いました。こうした秦から見て外国人にあたる人材を国の重役に用いるという事例は秦の伝統となったとまで言えるかわかりませんが、実際その後の秦の君主、孝公(こうこう)さんの時代にもそういった人材登用がおこなわれました。孝公さんは秦が諸国を統一するよりも120年ほど前に秦の君主となった人です。孝公さんは自国の力を強めることに大変意欲的だったそうで国籍を問わず優秀な人材を求め、その結果衛(えい)という国の君主のお子さんという大変特殊な立場の人物であった商鞅(しょうおう)さんを登用し政治を任せることとしています。

制度変更

先ほど名前の出てきた優秀な外国人のお一人、商鞅さんは秦の君主の許しのもと、それまでの国の制度をかなり変更しました。その結果秦の国力が強まったと言われています。商鞅さんがやった制度変更には複数あるのですが、法の徹底順守や地方統治の制御、功績に応じた待遇の提供、連帯責任制度の採用といったものが有名なようです。秦の中央で定めた法令については、その法令を出したからには、政治をおこなう中央もしっかりと法令に沿った対応、措置を例外なくとるという姿勢を徹底して秦の民衆に法令をきちんと守ろうという考えを広めていきました。身分の非常に高いお方については法律を犯しても処罰しないなどということが世の中では往々にしてありそうなものですけれど、商鞅さんが政治に関与していた頃はそういった例外を認めませんでした。君主のお子さんが法に触れたことをした場合にですら罰則を適用したなどといった逸話があるそうです(罰を受けたのは君主のお子さんのお付きの方だったようですが)。また地方を治める立場には中央から任命する役人をつかせ、それまでのような君主の一族や身分の高い一族の関係者に地方統治をゆだねるような体制から変更しています。これによって政治をおこなう中央の意向が秦の地方にも直接行きわたり、行政の効率がそれまでに比べ向上したと見られています。また戦で功績のあった者には相応の待遇を与え、身分が高くなかったものでも功績によって出世することが出来るような仕組みに変えていきました。この制度変更によって秦の兵員たちの士気はとても高まったと見られていますし、このような仕組みによって秦の軍内部で大出世して将軍にまでなったような人物も出てくることになります。後世の秦の人物ですが白起(はくき)という有名な武将も戦功によって出世したかたです。

今回は戦国時代の七大強国の一つ、秦が、どうして中国大陸の諸国を統一することが出来たのかについて一部取り上げました。春秋時代や戦国時代という何百年もの期間を経て周王朝以来の大きな国が大陸の広範囲を支配する時代がやってくることになるのですが、その大きな国となる秦がどうして抜きんでた存在になったのかというのはやはり理由が気になったのでよく指摘されていることだけでも知りたくなり今回のようなテーマの記事を作ってみた次第です。他の国に先んじて独自性のある取り組みをしたことが功を奏したようです。国の政治を担当する役職に他国の人間をあてるというのは考えてみれば実行するのはなかなか難しいかもしれません。採用した他国の人材が口ではこの政策は秦のために必要と、もっともらしいことを言って実際のところは秦を亡ぼすような企みをはかっているなどということがもしかしたらあるのかもしれない、そんな疑念が浮かばないはずはないと思うのです。もし他国のスパイを政治指導者に据えたら大変ですから。そういったことを考えると秦の君主、穆公さんや孝公さんは本当に思い切った決断をしたものです。大抜擢が大正解で商鞅さんの改革で秦の国力は増大したそうですが、大きな制度変更はそれまでの制度で恩恵を受けていた人から強い反発を招くことになるということを今回の記事を作っていて知る結果となりました。改革で秦の国の力を強めることに成功した商鞅さんですが、商鞅さんが思い切った政治をすることが出来たのは秦の君主、孝公さんの後ろ盾があったからです。この孝公さんが没して次の代の方が君主になると、商鞅さんは罪を着せられて処罰されることとなってしまいました。残酷な方法によって処刑されます。背景には商鞅さんの改革によって冷遇された身分の高い一族の方々の恨みがあったなどという指摘があるようです。大きな制度変更をする場合には大変な恨みを買う覚悟が必要ということなのでしょうから、その点で政治は相当な苦労が伴いますし、こわいものとも言えるように思います。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事ではTOSHI YOSHIWARAさんによる写真ACからの写真 を使用させていただいております。

周の影響力が低下した後の大陸について触れている話「古代中国の周王朝が東遷してから大陸はどうなったのでしょう」はこちらです。

日本国内が混乱する契機となった出来事について触れている話「応仁の乱は戦国時代になぜつながっていったのでしょう」はこちらです。

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