辛亥革命とは?革命が起きた原因や袁世凱についても
辛亥革命とは
辛亥革命(しんがいかくめい)は西暦1911年、中国大陸の清国の中で発生した出来事です。清国政府による支配に反発した様々な勢力は清国内の各所で武装蜂起しては失敗してきましたが、ある反乱が成功しました。
中国大陸の内陸にあり有名な川、長江(ちょうこう)の中流に存在する湖北省(こほくしょう)という行政区域があるのですが、その湖北省の現在の武漢市(ぶかんし)にあたる地域で1911年の10月に現地の軍内部で反乱が発生し、現地の司令部を制圧することに成功しました。
この反乱事件の成功をきっかけにして清国領土内の様々な地域で任務に就いていた清の軍が「担当しているこの地域は清国から独立する。」と各所で宣言してしまう動きが広がっていきました。
国を治めていた清国の政府はこの反乱を抑えるために反乱を起こした地域に軍を派遣して鎮圧しようとしますが、反乱勢力を完全に抑え込むことは出来ませんでした。反乱勢力は占領することに成功した大都市南京(なんきん)で全国の反乱勢力側の代表による会合を開き、「中華民国(ちゅうかみんこく)」という新たな国を作り、その国の臨時政府を南京に設置することとしました。その政府のトップは臨時大総統(りんじだいそうとう)という立場で、孫文(そんぶん)という人物が就任することになりました。
清国政府はこの中華民国側を討伐するために軍を動かすのですが、当時清国側の軍を動かす立場にあった袁世凱(えんせいがい)は政府中央の命令通り中華民国に対し武力討伐を行わず、話し合いを行います。清国皇帝の生命の安全を保障するよう中華民国側に認めさせ、その代わりに皇帝を退位させるという取引をした袁世凱は、清国の皇帝周辺の勢力を説得しました。その結果当時の清国の皇帝、宣統帝(せんとうてい)は退位される結果となります。皇帝の座を退いたわけです。こうして中国を治めてきた大国、清国は滅亡することとなりました。1912年2月のことでした。1616年の建国から約300年もの間、満州人が統治してきた中国大陸の君主国が消えたわけです。
辛亥革命は湖北省の反乱から清国皇帝が退位し清国が滅びるまでの経過を呼ぶ場合と、もっとそれ以前の清国内で発生していた様々な武装蜂起が発生していた頃(1895年以降)から中華民国が誕生するまでの期間を意味する言葉として使われることもあるようです。
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革命が起きた原因は
直接のきっかけは1911年に清国政府が行った鉄道に関する政策のようです。清国領土内に敷かれていた民間の鉄道を清国政府のものとし、それを担保にして欧米諸国から多額のお金を借りようとしたのだそうです。国の財産である鉄道を欧米に売り渡そうとしていると見なした人たちによって大きな反対運動が起きる結果となりました。この反対運動が強まり湖北省での反乱につながったようです。
また、以前から清国内に大勢いる漢民族の人たちは漢民族が統治する国を作りたいという考えを持っていました。清国は満州民族の統治する国だったため漢民族の人たちは不満を持っていたわけです。しかし清国の治安組織が強力な時代はそのような漢民族側の動きを抑えていたのですが、とうとう抑えきるだけの力が無くなってしまう所まで来てしまいました。
当時清国で行われていた皇帝による専制政治ではなく、民主政治を導入することを望む人々が増えていたことや、欧米列強や日本に浸食されているにもかかわらず近代的な国に変わっていくための体制を立て直す動きが鈍いことに対し多くの人々が失望していました。
また戦争に負けたことで支払う賠償金や国の近代化のために清国政府はお金を工面しなければなりませんでしたが、民衆に対する税負担を増やすことで対応するしかありませんでした。この政府の増税政策に民衆からは強い反発が起きていました。
この革命の原因としてそのような要素も関係しているように思います。
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袁世凱について
袁世凱(えんせいがい)さんは中国大陸に走る大きな川、黄河(こうが)の南にある内陸の地域、河南省(かなんしょう)出身の軍人出身の政治家です。漢民族の人です。清国末期の政府で活躍した政治家、李鴻章(りこうしょう)さんに認められ出世したそうです。
西暦1884年、朝鮮国で親日勢力によって起こされた武力による政権交代を図った出来事、甲申事変(こうしんじへん)の時には清が派遣する軍の指揮官として活躍しこの政権交代の動きを抑えることに成功しています。
また清国の近代化のために改革を行おうという勢力の動向を当時の政権側に伝え、政権側から信任を得るようなこともあったようです。新しい制度を導入した陸軍を作ることにも貢献したそうで清国政府からは頼られる存在でした。
1908年に皇帝、光緒帝(こうちょてい)が亡くなり新体制に変わった後は、かつて改革派を裏切ったことで新体制側から恨まれていたこともあり失脚します。しかし辛亥革命が起こって反乱勢力を抑えることの出来る人材がおらず、困った清国政府は袁さんに頼るしかなく、袁さんは再び政府に呼び戻されました。
しかし上記の通り袁さんは反乱勢力と話し合いをして皇帝を退位させる結果となります。軍を動かし秩序を維持できる袁さんは反乱勢力にも頼られ中華民国のトップ、大総統となりました。国の最高権力者となった袁さん。しかし権力の毒にやられてしまったのか、袁さんは自分を皇帝にして「中華帝国」という国を作ってしまいます。そのため、民主政治を望む人たちから反発を受け、各地域の実力者も袁さんの動きに反発、結果的に皇帝の座を退きその後間もなく亡くなりました。56歳でした。
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今回は辛亥革命を取りあげてみました。日本が南満州で権益を確実なものにしようとしていた頃、その清国で起きた、清国が消えてなくなるきっかけとなった出来事ですし、日本にとっても関係が非常に深い話ですから調べてみることにしました。
辛亥革命の出だしとなる湖北省での武装蜂起は軍内部の反乱から始まったようです。確かに軍の中で体制に反発する人たちが主導権を握ってしまったら現地でその勢力を抑える存在はいないでしょうから、反乱が成功する可能性は高くなりますね。そう考えると反乱が発生するのを未然に防ぐためには軍の内部こそしっかりコントロールする必要があるということでしょうか。
湖北省だけならともかく国中あちこちで反乱が起きてしまっては鎮圧も困難でしょうね。あちこちで反乱が起きたのはもう清国政府に反乱を抑える力が無いとそれぞれの地域の軍が見なしたからでしょうし、例え一部の地域でも秩序を維持できないと一気に国が崩れていくことに繋がってしまう危険性があるのだなと感じました。体制への不満がたまっていればその危険はさらに強まるでしょうね。
日清戦争や北清事変で大変な賠償金を背負うこととなってしまった清国ですからお金を諸外国に払うため国民から税をとるしかなく、そうなると民衆の不満は大きくなってしまいます。日清戦争や北清事変が清国のその後に大変影響したということは明らかでしょう。他国と争うことは自分の首を絞めることになりかねないですね。
自分たちの国だけの意思ではどうにもならないことはあるものの、戦争などやらずに済むならそれに越したことはないな、と(当たり前の話ではありますが)改めて感じました。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載した写真に関係はございません。ご了承ください。
清朝衰退関連記事「義和団事件、北清事変とは?日本の対応についても」はこちらです。
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