前九年の役と後三年の役を簡単に説明してみました

前九年の役と後三年の役を簡単に説明すると

平安時代の歴史に関心を持たれてこのページに来られた皆さんこんにちは!この記事では平安時代に発生した「いくさ」、前九年の役、後三年の役について私なりに簡単に説明してみたいと思います。前九年の役(ぜんくねんのえき)、後三年の役(ごさんねんのえき)という戦は平安時代中ごろ、11世紀後半(西暦1050年以降)に発生しています。先に起きたのが前九年の役、その後に起きているのが後三年の役です。どちらの戦も戦いの舞台となったのは東北地方です。戦う当事者というのは前九年の役、後三年の役でいろいろ違うところもありますが、どちらの戦でも武士の有名な家系、源氏の一族のかたがたが大きく関わりました。この前九年の役、後三年の役という戦を経て、源氏の一族と東国で生活していた武士の人々との結びつきがとても強くなったと言われています。それではそれぞれの戦についてさらに簡単に補足してみたいと思います。

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前九年の役

この前九年の役という戦は東北地方で強い影響力を持っていた勢力、安倍氏が朝廷から指示されている税負担などにきちんと応じようとしなくなった、反発するようになったことがきっかけとなりました。言うことをきかせようと元々陸奥の国(現在の青森県や岩手県、宮城県、福島県にあたる地域を含んでいます)で国司をしていたかたが軍事的圧力をかけても安倍氏を簡単に制圧できなかった、言うことをきかせることに失敗したことで新たに朝廷は源氏のリーダー、源頼義という人に陸奥の統治を任せることになりました。陸奥の新たな国司となったのです。着任した源頼義さん、厳しい戦いになったのですが安倍氏とは別の東北地方の武士勢力、清原氏から協力を得ることが出来て、安倍氏の勢力を倒すことに成功しました。永承(えいしょう)六年、西暦1051年から康平(こうへい)五年、西暦1062年まで続いたと言われているので11年間、大変長く続いた戦だと言えるでしょう。

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後三年の役

一方の後三年の役という戦は朝廷の意向に従わない東北の勢力を倒す戦ではなく、東北地方で強い影響力を持っていた武装勢力の内輪もめといった性格の争いです。前九年の役が終わった後の時代に先ほどの前九年の役でチラッと出てきた清原氏という勢力の中で対立が起きてしまい結果的には清原清衡(きよはらのきよひら)という人が勝ち残るのですが、この清原氏一族の内部対立に、当時陸奥の国司であった立場の源義家さんが関わることになりました。最終的には清原清衡の側に立って義家さんは戦ったようです(この清原氏内部の内輪もめはややこしい話なので詳しく説明すると簡単ではなくなります)。義家さんが清原氏の内輪もめに関係したのは、当初清原氏の指導者、清原真衡の養子のかたと婚姻関係にあった女性が義家さんのきょうだいだったことが理由といった見方もあります。ただ義家さんが陸奥の国司、陸奥守(むつのかみ)を担当している以上、管轄の地域内で戦をされても困るでしょうから戦をすみやかに収束させたい立場ということで関与したということなのかもしれません。この戦は永保(えいほう えいほ)三年、西暦1083年~寛治(かんじ)元年、西暦1087年まで続いたと言われています。清原氏内部の戦いで勝ち残った清原清衡さんは藤原清衡という名前でもあり、源義経さんなどとつながりの深いことで有名な奥州藤原家の初代当主にあたるかたです。

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今回は前九年の役、後三年の役について一部取りあげました。歴史の授業で前九年の役や後三年の役について習ったのだと思うのですが、名前は聞いたことがあったように思うものの、全然その内容について印象が残っておらずどういった出来事だったのか確認してみたくなりこのようなテーマの記事を作ってみました。この出来事を調べていて源氏勢力が関与したことも舞台が東北地方だったことも頭には残っていなかったことが判明しました(汗)。東国の武士の人たちが源氏勢力を支持するようになったきっかけの戦いという側面もあるそうなのですが、その理由は源義家さんが戦いに貢献してくれた東国の武士の人々に対し自分の財産を使って恩賞を与えたからなのだそうです。朝廷は後三年の役に関して鎮圧を命令したわけでもないから与える恩賞など無いということで貢献した東国武士に恩賞として与えられるような財産を源義家さんに渡してくれなかったのだそうです。かといって共に懸命に戦ってくれた東国の武士の人々に報酬を与えないわけにはいかないということで義家さんが自分の懐から恩賞を与えることにしました。この行為に感激して東国の武士の人々は源氏の一族を支持するようになったのだそうです。義家さんが朝廷からの命令が無いからと言って後三年の役に関与しなかったらどうなっていたのでしょうね。治安はやはり乱れて困ったことになったのではないでしょうか。義家さんが朝廷にマメに報告して指示を仰いで恩賞のようなものの確約を朝廷から取っていたら身銭を切るようなこともなかったんでしょうかね・・・。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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源氏の大将が鎌倉で政権を開いた理由について触れている話「鎌倉が幕府を開く場所とされた理由は何なのでしょう」はこちらです。

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