平将門の乱と藤原純友の乱を分かりやすく説明してみました
平将門の乱と藤原純友の乱を分かりやすく
平安時代の歴史に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では平将門の乱や藤原純友の乱について私なりに分かりやすさを心掛けて書いてみたいと思います。この平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と藤原純友(ふじわらのすみとものらん)を今回同じ記事で扱うのは似たような時期に発生した出来事だったからです。どちらの出来事も時の政権、中央政府である朝廷に反抗しており、反乱の首謀者が一時的に広い地域を支配下に置くような事態となりました。しかし結果的には相当本腰を入れた朝廷側に与する強力な勢力によってどちらの反乱事件の首謀者も倒されています。反乱事件の首謀者は出来事の名前にもなっている通り、平将門さんと藤原純友さんです。これらの反乱事件は西暦930年代後半から940年代に入った頃にかけて発生しました。この二つの反乱事件がほとんど同じ時期に起こっていることに関しては特別な理由は無くたまたま重なっただけという見方が多いようです。平将門さんは東日本で藤原純友さんは西日本で反乱を起こしています。これら二つの反乱行為を中央政府がすぐ鎮圧することは出来なかったそうで、それによって中央政府の軍事力は思ったほどすごいわけではないねという印象を国内の様々な武装勢力にさらしてしまうこととなりました。
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一時期はどれくらい支配を広めたのでしょう
平将門さんは関東地域で朝廷側と対峙することになりますが、一時的には様々な地域を自分の支配下に置いています。現在の関東地方、一都六県にあたる地域全域が将門さんの影響下に置かれた時期もあったそうなので相当勢いがあったことがわかります。一方の藤原純友さんは主に瀬戸内海全域を一時的には支配下に置いてしまいました。勢いが強かった頃は北九州にある朝廷のお役所、大宰府(だざいふ)も襲撃していたのだそうです。当時の西日本は現在よりも日本にとってさらに重要度の高い地域でしたが、その西日本の物流のためには瀬戸内海はどうしたって必要な地域、海域でした。朝廷も西日本が拠点ですから影響を当然受けます。どちらの反乱事件も非常に広い地域が巻き込まれることになり朝廷は衝撃を受けました。
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首謀者はどういった立場の人だったのでしょう
平将門さんは桓武平氏(かんむへいし)、桓武天皇の子孫にあたる平氏、平という姓をいただいた一族の末裔のお一人です。とはいっても将門さんの家系は関東の一地域に拠点を持つ地方の豪族という立場でした。京で貴族の護衛をするような仕事をしていた時期もありましたがその後関東に戻り現在の茨城県西部を拠点としていたそうです。藤原純友さんは天皇の補佐をする官職として有名な摂政や関白を多く出しているあの藤原家一族のお一人ですが、藤原家内でも競争が激しいということなのか藤原純友さんは中央政界で活躍するような機会を得ることが出来ず、地域を統治する国司の中の身分が低めな役人という立場、あるいは治安維持のためにはたらくお役人という立場で伊予(いよ)、現在の愛媛県にあたる地域に赴任し仕事をしていました。
反乱の理由ははっきり定まっていないようです
将門さんの場合は地域の国司の役人から目を付けられていた人物に助けを求められ、かくまったことからお役人と戦う羽目になってしまい、常陸国(ひたちのくに 現在の茨城県にあたる地域)の国司のお役所を制圧してしまったことで朝廷と決定的に関係が悪化してしまったようです。どうせ朝廷と対立してしまったのだから、ということなのでしょうかその後支配地域を関東一帯に広げるほど暴れまわることになりました。藤原純友さんの場合も反乱理由はよくわかっていないようです。瀬戸内海地域の海賊という本来純友さんが取り締まる対象だった勢力となぜか純友さんが組んで反乱を起こすこととなります。一地方役人として仕事をしてきたことが朝廷から評価されなかったので反乱を起こしたといった見方もあるようですが必ずしも理由として定まっているわけでもないようです。
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今回は平将門の乱と藤原純友の乱を一部取りあげました。平安時代の出来事として教科書で説明されている有名な出来事ではありますが、歴史を学ぶ上でどれくらいの意味合い、重要性がある話なのかちょっとよくわからなかったので、少し突っ込んで話の内容を確認してみたくこの出来事を取りあげた記事を作ってみました。教科書にも反乱で攻め落とされた地域のお役所に関して多少言及していましたが、反乱の首謀者が関東一帯とか瀬戸内海一帯を支配下に置いた時期もあったという印象は今まで持っていませんでした。現在そのような反乱、関東一帯が反政府勢力の支配下に置かれるような事件が起きたと仮定したら、大パニックになるだろうといったことは私でも容易に想像できます。当時の時代でも大問題だったことでしょう。地域を治めている国司の持つ軍事力で片付いていたのなら朝廷が慌てることもなかったのでしょうが地域に根差した武装勢力の力は相当強く、簡単に収まりませんでした。当時の中央政府には地方の問題に対応するための軍事力を整備するような経済的な余裕が無かったということなのでしょうかね。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
影響力を強める勢力について触れている話「武士という存在が誕生した理由は何だったのでしょう」はこちらです。
別の時代に国内を混乱させた出来事について触れている話「応仁の乱の原因は簡単に言うと何だったのでしょう」はこちらです。
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