長崎が出島の作られる場所となった理由は何なのでしょう

長崎に出島が作られた理由

 

江戸幕府が長崎に出島(でじま)を作ったのは寛永11年、西暦1634年だったそうです。出島はその後江戸幕府が開国し他の港を開くことになるまで、他国との貿易をおこなう重要な場所であり続けることになります。現在の長崎にも出島となっていた場所はありますが、第二次大戦後周囲は埋め立てられ以前そうだったような海に取り囲まれたような状態にはなっていません。出島は幕府と長崎の商人がお金を出し合って埋め立てて作った人口の島です。江戸時代初期は長崎の他にも平戸など別の場所で貿易がおこなわれてもいましたが、長崎に敢えて出島が作られた理由は何だったのでしょう。理由としてはポルトガルという国との貿易の拠点が長崎の地であったからだと考えられます。

 

スポンサーリンク

ポルトガルという国がどうかかわってくるのでしょう

 

出島が作られた目的は国内でのキリスト教布教をさせない為です。貿易目的で入港したポルトガル商船の関係者の行動に規制を設けないと、商船関係者が周辺に住む日本人にキリスト教を布教する可能性がありました。それを防ぐために商船関係者に日本人との接触の機会を極力与えないよう行動できる範囲を出島に限定するようにしたわけです。そういった理由で貿易に関係しない日本人が出島に立ち入ることは制限されていました。ポルトガルはキリスト教の布教に熱心な国の一つでキリスト教を禁止した江戸幕府がこの国に関係している商船の動向を警戒していました。ポルトガルの関係者は幕府からキリスト教を布教しないよう命令があっても幕府の目を盗んで布教活動をするような動きがあったからです。布教の中止を徹底しようとしないポルトガルの対応に幕府は不満だったので出島を作ってポルトガル関係者の行動を著しく制限することにしました。

 

スポンサーリンク

ポルトガルはどうして貿易の拠点を長崎にしていたのでしょう

 

ポルトガルは日本との交易をし始めたのが1500年代になりますが、当初は平戸(ひらど)という場所で貿易をしていました。しかしポルトガル商船の関係者と地元の人たちとの間で摩擦が生じ、ポルトガルは平戸での貿易がやりづらくなったようです。他に貿易をする都合のいい場所が無いかとポルトガルの関係者が探していたところ、長崎の領主であった大村純忠(おおむらすみただ)さんという人が貿易で利益を得られることに着目して長崎での貿易をポルトガル側に勧めました。港としての条件も良かったようですし大村さんがキリスト教の布教を許可したこともあってポルトガル側は永禄5年、西暦1562年頃に貿易の拠点を平戸から長崎に移すことになります。それ以降長崎はポルトガルとの貿易が発展していきました。江戸時代に入って長崎が江戸幕府直轄の地域になった後もポルトガル貿易の中心は長崎の港でした。平戸でのトラブルが無くポルトガル貿易が続いていたのなら平戸に出島のようなポルトガル側を統制する仕組みが作られていたのかもしれません。

 

まず平戸でポルトガルとの貿易がおこなわれた理由は

 

長崎の前にまず平戸でポルトガルとの貿易が始まった理由としては平戸にいた中国大陸の商人の人たちがポルトガル商人とのつながりがあって日本との貿易に意欲のあったポルトガル商船を連れてきたことや平戸を領地としていた松浦隆信(たかのぶ)さんが平戸でのキリスト教の布教を許可したことなどが関係しているようです。キリスト教関係者はそれ以前に薩摩(現在の鹿児島)の地域でキリスト教布教を望んでいたそうですが薩摩のお殿様の判断で布教が許可されることはありませんでした。キリスト教関係者にとって平戸は一時期布教の拠点として重要な場所となりました。もし薩摩でキリスト教布教が許可されていた場合、薩摩地域の港がポルトガルなどとの貿易拠点として栄えたのかもしれません。

 

スポンサーリンク

今回は出島が長崎に作られた理由について取りあげました。鎖国関連の記事を作ろうと思ったのですが、出島がどうして長崎に作られたのかということについて一般的な関心があったようですし、個人的にはっきりと理解できていなかったこともあってこのようなテーマにしてみました。今回調べる以前はヨーロッパの国々との交易は鎖国をする以前からどの国とも長崎でやっていたものだとばかり思っていましたが、そうではなかったんですね。長崎はポルトガルとの貿易が盛んな場所だったわけで、例えば江戸時代を通じて交易する関係にあったオランダは出島が作られた当時長崎での交易ではなく平戸で盛んに貿易をしていました。オランダがキリスト教布教と貿易とをしっかり切り離し日本に気に入られて貿易を続けることが出来たのは有名な話ですが、私の場合場所に関してはよくわかっていませんでした。出島はポルトガルとの交易が終了した後に幕府がオランダに対し指示したことで新たにオランダの貿易拠点になります。平戸は江戸時代以降、江戸幕府の直轄地とされてはおらず平戸藩という松浦家が領主の地域に属する場所でした。ポルトガルとの関係も切れましたし、幕府としては他の大名が支配する土地ではなく、幕府直轄地の長崎でオランダに貿易してもらった方が都合もよかったということなのでしょう。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

幕府とイギリスの関係について触れている話「江戸時代にはイギリスとの貿易ってどうなっていたのでしょう」はこちらです。

幕府と明や清のかかわりについて触れている話「江戸時代の日本は中国大陸の国とどんな関係だったのでしょう」はこちらです。

 

関連記事

ページ上部へ戻る