張作霖という人は日本とどのような関係があったのでしょう

張作霖氏と日本の関係

大東亜戦争(太平洋戦争)が始まるよりも前の時代の日本や中国大陸が関係する出来事、歴史について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では一時代、いわゆる満州地域のかなりの割合を支配していた人物である張作霖(ちょうさくりん)氏と日本政府がどのような関係であったのかについて自分なりに書いてみたいと思います。この張作霖という人はこのサイトの他の記事でも触れていますが、列車に乗って北京から奉天(ほうてん 現在は中華人民共和国遼寧りょうねい省の都市、瀋陽しんよう)に向かっている途中、爆弾を仕掛けられ殺害されてしまったかたで、先ほども述べましたが満州地域を支配していた武装勢力の指導者です。この爆弾による襲撃をおこなったのは何者なのかということで複数の説があるようではありますが、日本の歴史教育では関東州(かんとうしゅう 中国大陸の現在では東北部と中国が呼び、以前は満州と呼ばれた地域の南部に存在する遼東りょうとう半島のあたりを過去の日本は清国から租借そしゃく、借りていた時期がありました。この遼東半島の一帯を日本では関東州と呼んでいました)に派遣された日本軍である関東軍が張作霖を爆殺したと断定しています。日本の軍隊が張作霖氏を殺害したというわけですから、この事実に注目すると日本と張氏は敵同士のように思ってしまいますが、この両者の関係というのはどういったものだったのでしょう。もともと日本と張作霖氏はいがみ合っていた関係などではなく、お互いを利用する、お互いを必要とするような関係でした。ただそのような関係も次第に変化し、双方の思惑がズレてしまうことで、以前に比べ両者の関係の緊密さも薄れていくこととなったようです。そのような時期に張作霖爆殺事件は発生してしまいました。昭和三年、西暦1928年6月の出来事で、それから三年ほど経過したころに柳条湖りゅうじょうこ事件が起きて満州事変という日本軍と中華民国の国民党に所属する形をとっていた武装勢力との間の武力衝突が満州地域で発生してしまいます。

スポンサーリンク

助命、支援、利用

張作霖氏は満州地方の南部で生まれた人物で、漢民族であり、満州民族(女真族)ではありません。彼は生家を離れ自警団とも盗賊とも見られてしまうような勢力、馬賊ばぞくに身を投じ頭角を現すようになります。日露戦争が満州地域で繰り広げられている時にはロシア側のスパイとして活動したそうで、その嫌疑で日本側に捕らえられ処刑されそうになりました。窮地に陥った張氏を日本軍の将校たちが助命、日本側のスパイになるという条件を飲ませて解放します。その後張氏は日本軍に協力するようになりました。張氏はその後清国の軍人という身分になり、清国が辛亥しんがい革命で滅んだあとも、その後誕生した国、中華民国の軍隊の中で満州地方の武装勢力をまとめる重要な役割を果たしたそうで出世することとなります。中華民国は統治状況が安定せず遼東半島地域や南満州鉄道関連の権益を持っていた日本としてはそのような利益を現地に派遣した日本軍である関東軍に守らせようとしたわけですが、南満州鉄道が敷(し)かれている満州地域において関東軍の他にも日本側の利益に理解を示してくれるような勢力がいてくれた方がより望ましく、安心でした。そのため日本政府は日露戦争時代から日本軍とそれなりに関係のあった人物、張作霖氏を支援して彼に満州地域の統治を任せ、日本側の権益を尊重してもらおうとします(張作霖は中華民国に移行した混乱期に乗じて上司にあたる人物を追い落とし、満州地域で最大の武装勢力を率いる存在となっていました)。最初は武器、兵器を供与するような支援を日本政府はしたようですが、中華民国に対して武器供与しないという協定を日本政府が諸外国と結んだ後は武器、弾薬を生産するための現地設備を建設するための援助をしたそうです。満州地域にそのような武器・弾薬の生産設備が整えられることで張氏の有する武装勢力は更に強大となり、張氏はその覇権の及ぶ地域を満州以外の地域にも広げようといった欲を持つようになりました。

スポンサーリンク

冷え込み

勢力を強めた張作霖氏の勢力は満州とは異なる地域、政治上重要な都市、北京が存在する華北などにも進出し支配地域を拡大しました。状況が許せばそのまま中華民国全域を自分の手によって支配、統治したいという思いもあったのでしょう。しかし中国大陸の南部から勢力を拡大した蒋介石らの国民党軍との戦いによって敗れてしまい、結果的には満州に撤退せざるを得なくなります。そういった状況の中で満州の重要都市、奉天に向かう途中に張氏は爆殺されてしまいます。もともと日本は満州地域の自国の権益を確保するために現地の支配勢力と良好な関係を作りたいということで張作霖氏の勢力を支援してきたのであり、張氏が満州以外の地域に進出して中華民国内の内戦に参加することを望んでいなかったそうです。満州にまで中華民国の内戦が波及してしまうと日本の権益が損なわれたり現地の日本人に危険が及んでしまうことも憂慮されます。そういった理由で張氏の勢力拡大路線に日本は消極的でした。また張作霖氏は他の地域の武装勢力との戦闘に勝利するため、軍事力の増強を目的に多額のお金をつぎ込みました。満州地域内で流通する紙幣を乱発したのだそうで、それによって満州地域の経済が混乱し、現地の日本人、日本企業も相当迷惑をしたそうです。また張作霖はどういった考えのためなのか、日本側と南満州鉄道と並行した鉄道を建設しないという約束を交わしていたにもかかわらず、それに反して南満州鉄道と並行する鉄道をイギリスやアメリカの支援を得て敷設するような真似をしだしました。日本側は張作霖氏の変節によって満州地域の日本の権益のかなりの割合が実質的に欧米勢力に奪われてしまうという危機感を強めます。また張作霖氏は満州以外の地域にも勢力を拡大する過程で日本とは異なる国、アメリカなどとの関係を深めていったという指摘もあるようです。以上のような理由もあって日本政府は満州の実力者、張作霖氏に対する不満を強めました。以前に比べれば日本と張氏の関係は冷えたものになっていったようです。

スポンサーリンク

今回は満州地方を一時期支配していた実力者、張作霖氏と日本の関係について取り上げました。日露戦争に負けることなく講和を結ぶことが出来た日本が満州の南部である遼東半島を清から長期間借りることが出来たわけですが、日清戦争の下関条約で約束したように遼東半島を自国領にすることが出来たわけではなく、他の満州地域についてはもちろん日本のものではありませんでした。そのような場所で日本の経済利益を守るためにも現地の有力者と良好な関係を作る必要があり、その相手が張作霖氏だったということになります。歴史教育で張作霖氏を日本軍が爆殺したと教わりますが、どういった利害関係があったのかについてより詳しく確認してみたく今回のようなテーマの記事にしてみた次第です。日本と張作霖氏の関係が以前のように持ちつ持たれつの関係とはならなくなっていったわけですので日本軍側に張作霖氏を暗殺する動機というのはやはりあるように思いました。ただ張作霖氏を殺害する動機が他の勢力にないかというと、そういうわけでもないようで、張作霖氏は子息の張学良氏と対立していたという話もありますし、張作霖氏の部下にあたる人物が張作霖氏の命を狙ったこともあるようです。またソビエト連邦が張作霖氏を殺害したという見方をする人たちもおりますし、張作霖という人は権力者であるがゆえに様々な立場の勢力から狙われていた存在だったということは言えそうです。張作霖氏が日本との距離を置き、それに比較してアメリカなど他国との関係を強めるような動きを見せた理由についてはよくわからないところがありますが、満州地域で当時保有していた権益にとどまらず満州地域を日本が我が物にしようという野心を持っているといった疑いを張氏が強めたとか、日本から受けていた便宜よりももっと美味しい話をアメリカなど他の国から提示されたといったことがあったのでしょうか。いずれにせよ自国の領土となっていない地域に権益を持つと、それと引き換えに現地の支配勢力との関係の調整や競合する勢力とのせめぎあいも出てきそうですし、いいことずくめの話というわけでは全然無さそうですね。また、張作霖氏主導の鉄道敷設を支援したということからも、アメリカの満州地域に対する野心というものを今回の記事を作っていて改めて感じました。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では写真ACで提供されている写真を使用させていただいております。

張作霖さんの暗殺事件について触れている話「張作霖爆殺事件とは?発生した場所や張学良の動きについても」はこちらです。

張作霖さんの暗殺が発生する以前の日本政府の方針について触れている話「田中内閣が日本で開いた東方会議とは?その背景や影響についても」はこちらです。

関連記事

最近のコメント

    ページ上部へ戻る