春秋時代の強国だった晋がどうして分裂したのでしょう

分裂した春秋時代の強国、晋

古代中国大陸での出来事について、周王朝の力が弱まった後の時代、春秋戦国時代の話について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!周王朝が強大だった時代から存在し、周王朝が異民族に侵略されてしまい都を移さざるを得なくなってしまったことを境に始まった時代である春秋時代の一時期には周王朝の王様を尊重する諸国を取りまとめるような立場でもあった強国、晋(しん)。この記事では、この晋という国が分裂したのはどうしてなのかについて私なりに書いてみたいと思います。この国は現在の中国、中華人民共和国の行政区域、山西省(さんせいしょう 中国大陸にある大きな半島の一つ、山東半島が含まれる行政区域、山東省の西にある省です)という地域があるあたりに存在していました。周王朝が誕生してそれほど時代が経過していない時期、周王朝の王様の弟さんに領土が与えられたことがきっかけでこの国が誕生しています。周王朝の王様と血縁関係にある一族が治めてきた国ということもあって周王朝との関係も強く、軍事力も強大だったそうなので、その後弱体化した周王朝にとっては頼もしい存在でもありました。中国大陸の南方で勢力を拡大させていた楚(そ)という国が周王朝との主従関係にある国々があった地域に侵攻してきたときにも晋が撃退することに成功したりしています。そんな、強くて有名だった晋国だったのですが、後に韓、魏、趙の三カ国に分裂してしまいました。この晋国分裂を境に春秋時代から戦国時代に移行することとなります。どうして強国、晋が分裂してしまったのでしょう。晋の政治の実権が晋の主君にではなく本来主君の家来であるはずの晋国の貴族に握られてしまったことや国内の権力争いで主君が一部貴族勢力の制圧に失敗してしまったこと、主君の好ましいと言えない振る舞いによる求心力の低下といったことが挙げられるように思います。

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晋の貴族

六卿(りくけい)などと言い伝えられる、大きな政治権力を持った貴族の家系があったと言われています(六卿は全く別の国の役職を意味する場合もあり、晋特有の呼び名というわけではないようです)。六つの家系なのですが、范氏(はんし)、中行氏(ちゅうこうし)、智(知)氏(ちし)、韓氏(かんし)、魏氏(ぎし)、趙氏(ちょうし)という氏族らを意味していました。晋国の君主である一族と血縁的に関係があったのは韓氏です。9代目の君主、穆侯(ぼくこう)さんのお孫さんを始まりとする家系です。魏氏はさかのぼると周王朝を誕生させた王様、武王の弟に行き着く家系だとされています。晋の君主はさかのぼれば周王朝の二代目の王様、成王の弟さん、唐叔虞(とうしゅくぐ)という人が始まりですので、魏氏も晋の君主の家系と血縁という点で全く関係が無いというわけでもないのでしょう。他の范氏、中行氏、智(知)氏、趙氏は晋の君主の家来という立場となり実力をつけていった家系です。晋の君主から貴族に実権が移ってしまってしばらくはこういった六家系が権力のバランスをとっていたのですが、この六家系で権力をめぐる争いが生じ、まずは范氏と中行氏が争いに敗れ、残る四家系に領地を奪われます。そのあと残った四家系のうち智氏が他の家系以上に強大だったようですが、残る三家系が裏で同盟を組み、協力して智氏を倒すことに成功します。この残った三家系、韓氏、魏氏、趙氏が晋国分裂の際に当事者となって分裂後の国々の領主となるわけです。本当は周王朝にとって頼もしい存在であったはずの強国、晋が分裂するなどということは周王朝の王様にとっては心から喜べるようなことではなかったのではないかと思いますが、韓、魏、趙という強力な三勢力の要求を退けられるほどの実力もなかったということでしょうか、周王朝の王様はこの分裂した三勢力を三つの国として認めることとしました。

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力の衰え

晋誕生以来、晋の貴族が政治の実権を握っていたわけではもちろんなく、先ほども触れましたように大陸の南方で強まった勢力、楚が北部に侵攻してきたときには晋が撃退し、晋の君主である文公さんが覇者、周王朝を尊重する諸侯たち、国々をまとめるリーダー的存在になっていたこともありました。君主が権威も実権も持っていた時代があったものの、その後影響力が弱まります。ただ、君主の力が弱い状況をよしとしない君主もいたようです。先ほど触れた六卿間の権力争いの過程で敗れた貴族の領地を君主の了承も無く勝利した貴族勢力が勝手に分配するようなことがあり、時の君主の怒りを買ってしまったことがありました。君主としては怒るのも当たり前な気がします。時の君主、出公(しゅっこう)さんは、負けた貴族の所有していた領地を勝手に処分した勢力を倒すために出兵したのですが、相手となった貴族勢力は強く、出公さんは敗退し他国に亡命することとなります。それ以前にも楚の撃退に成功した厲公(れいこう)という人が晋の君主だった時代に家来の謀略によってこの厲公さんが命を落としてしまうという出来事も発生しています。厲公さんは家来から処刑するべきと進言されたものの受け入れず、一旦捕らえられた役人たちを解放したのですが、この釈放してあげた者たちに隙を突かれて拘束され結局殺されてしまいました。力のある君主が家臣に殺されるようなことがあったとしても国の対面上、国の顔として君主と血縁がある人物に新たな君主として即位してもらうことになるわけですが、お飾り状態となっていき以前のように君主がしっかり国を率いるような体制にはなかなかならなかったようです。しかし誰かが晋の国をまとめ、動かさなければならないということで君主の力が弱まる一方で、家来の立場の者たち、貴族の影響力が強まっていきました。

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今回は周王朝が力を持っていた時代から春秋時代にかけて中国大陸に存在していた国の一つ、晋が分裂した理由について一部取り上げました。周王朝が弱体化する話は以前にも取り上げ、周を支えていた国の一つ、晋が弱まっていった事実も春秋時代から戦国時代に移る時の出来事として知りはしたのですが、何か晋の弱まる決定的な理由があったのかどうか確かめてみたくなり今回の様なテーマの記事を作ってみることとしました。強い指導力を持った君主が国を引っ張っていくのだとしたら家来の立場であるはずの貴族たちが実権を握る余地など無いはずで、やはり君主の立場の方が家来に殺害されてしまうようなことが起きてしまったことが後の晋の君主たちの影響力の低下に大きく影響してしまったということなのかもしれません。厲公さんが殺害されたことに関しては、何か落ち度があるとするのなら家来の間の対立関係が発端となるはかりごとについて、捕らえらえた者たちにしかるべき罰を科さない、すでに複数の家来を死なせたことを理由に渦中の者たちを処刑せず、元の役職に復帰させようとしたというあたりなのでしょうか。場合によっては寛大な措置をしたということで罪を許された家来たちは心を入れ替え忠臣に生まれ変わったのでした、なんていうことにもなるかもしれない厲公さんの判断でしたが、実際にはうまくいきませんでした。情けをかけると身を亡ぼすなどというのも世知辛い感じがして多くの日本人の感じるところとはちょっとズレが出てしまいそうですが、世界的に見ればこういったことが標準なのでしょうかね。日本でも平清盛さんが頼朝さんの命を助けて後で平家が頼朝さんに滅ぼされてしまうという話はあります。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事ではエルドンさんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

周王朝が弱体化した後の様子に触れている話「古代中国の周王朝が東遷してから大陸はどうなったのでしょう」はこちらです。

大国であった周王朝がコケてしまったことについて触れている話「強大な周王朝(西周)が滅亡した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

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