西晋が滅亡するまではどのような経緯をたどったのでしょう

西晋が滅亡するまでの経緯

中国大陸の古代の出来事や現在はもう存在しない王朝の歴史、三国時代と呼ばれる時代が終了した後の話題について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では三国志でも有名な三つの国、魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)が滅んで、大陸の広範囲を統一することに成功した王朝、晋(しん)がどのような経緯で滅亡に至ってしまったのかについて自分なりに書いてみたいと思います。まだ魏王朝が存在している時期に蜀は魏によって滅ぼされ、次いで魏の皇帝が国内で実権を握っていた司馬一族の有力者、司馬炎(しばえん)さんに皇位を譲り渡す、禅譲(ぜんじょう)することで曹一族の中での皇位継承が絶たれてしまい魏王朝も滅亡しました。新たに誕生した王朝、晋は三国時代の三大勢力として最後まで残っていた呉を撃ち滅ぼし、とうとう三国が分裂していた地域を統一しました。晋王朝の皇帝となった、司馬炎さんは武帝(ぶてい)という名で呼ばれるようになります。彼が新たな王朝を率いていくこととなりますが、彼が活躍していた頃は特段、王朝が滅びそうになる反乱は無かったようですが、飢饉の発生、民衆に課せられた税負担の重さで土地を捨てて逃げ出す人も出て王朝の財政はあまり安定しなかったようです。晋が呉を倒し統一に成功したのは紀元後280年で、司馬炎さんが魏の最後の皇帝曹奐(そうかん)に皇位を禅譲させたのはその15年前の265年です。晋王朝は200年代後半に誕生したわけですが、これがどれくらい続いたのかというと紀元後316年まで。洛陽を都とする晋はこの年に滅びます。その後南京(当時建康けんこうと呼ぶ都市でした)に都を移して王朝を再び築くこととなるのですが、洛陽に都があった頃の新王朝は西晋で南京に都があった頃の晋は東晋と呼んで区別されています。皇位禅譲から数えても316年まで51年。呉を倒して統一を果たしたころから数えるとたった36年で滅亡です。王朝の存続期間としてはやはり短いとしか言いようがありませんが、どのような経緯で316年に滅ぶこととなってしまったのでしょう。初代皇帝武帝さんがお亡くなりになってからは外戚勢力による政治運営とそれに不満を持った皇族諸勢力による武力介入で国内は大変な混乱となってしまったようです。この混乱に乗じて異民族が勢力を拡大し晋王朝(西晋)を武力で滅ぼしてしまいました。簡単な経過はそのような内容になるかと思いますが以下の項目でもう少し詳しく書いてみたいと思います。

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外戚、皇族が実権を巡り争いました

武帝(司馬炎)さんは皇位を継承する立場の息子さんが有能な方ではなかったことで晋の今後を心配したそうですが、呉を倒した10年後、紀元後290年に死去してしまいます。後を継いで皇位を継承した方は司馬衷(しばちゅう)という方。恵帝(けいてい)いう名の皇帝となりました。しかしこの方は政治に主体的に関与しようとはしなかったようで、その代わりに武帝さんの皇后(恵帝から見れば母親)の一族、楊一族が政治を動かしました。それを快く思わないものの中に恵帝の皇后、賈后(かごう)がいました。この女性は晋の国内で領地を与えられていた領主である皇族の一部の人たち(楚の領主と汝南の領主)を煽り、その皇族たちに楊一族を武力によって倒させました。楊一族が討たれたのは武帝さんが死去した翌年です。楊一族が政権からいなくなった後、賈后は楊一族を倒した皇族たちを葬ります。皇帝の命令と偽り、汝南の領主が謀反を企てているので楚の領主に汝南の領主を討伐するよう偽りの勅命(ちょくめい 皇帝からの命令の意)を出します。これで汝南の領主は楚の領主に討たれて死亡します。賈后はこの次に楚の領主を汝南領主殺害の罪に陥れました。これで楚の領主は処刑されこの世を去ります。こうして政治の実権を握っていた楊一族を追い出し、追い出すにあたって実際に動いた皇族の命も奪い、賈后とその一族はその後9年間ほど王朝の実権を握り、国を動かすこととなりました。この状況を不満に思っていた皇族たちがいました。晋王朝の領地の一部、趙(ちょう)や斉(せい)といった地域を生前の武帝さんから任されていた領主たちです。この人たちは偽の勅命を作り出すことに成功し、賈后とその一族を処刑することとなります。これによって賈后一派は政権からいなくなりました。これは武帝さんが死去してから10年後、紀元後300年のことだそうです。賈一族を排除した趙の領主は皇帝である恵帝さんの重臣という立場を得て政治上大きな権限を得ることとなりました。しかし賈一族を倒す際に趙の領主に協力し、貢献した斉の領主は武人としての官位を得ることは出来たものの、趙の領主のような待遇を得ることが出来ず、趙の領主は斉の領主から恨みを買うこととなります。

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皇族間での抗争と異民族の台頭

外戚勢力がいない政権で趙の領主は実権を握ることとなりましたが、それだけにとどまらず、趙の領主に対して恵帝さんが皇位を譲るようお膳立てをして、とうとう実行してしまいます。恵帝さんは太上皇(たいじょうこう)という立場となって皇帝としての権限は奪われました。そして恵帝さんの本来の後継者であるお孫さんは後継ぎの資格を奪われ、それだけではなく趙の領主に命も取られてしまいます。このような中央政権の動きについて不満が大きくなり、斉の領主は他の晋王朝の領地である河間(かかん)、成都(せいと)、長沙(ちょうさ)の領主と協力して皇位を奪った趙の領主を討伐しました(討伐のために協力した四領主も討たれた趙の領主も皆司馬一族の人たち、皇族の人たちです)。趙の領主が討たれたのは賈后一派が討たれた翌年、紀元後301年です。皇位を奪った趙の領主を倒して政治が安定するかと思えばそうはいかず、今度は王朝の実権を握った斉の領主がぜいたくな生活を送るようになり皇帝の承認をないがしろにするような好き勝手な政治をおこなうようになってしまいます。こうした斉の領主による横暴を良しとしない河間、成都、長沙の諸領主は決起し協力して斉の領主を討伐しました。趙の領主が殺害された翌年、紀元後302年の出来事です。しかしそれでも王朝は安定しません。長沙の領主が中央政権にとどまったことで成都、河間の領主は不満を持ち、晋王朝内の他の領地、東海(とうかい)の領主と協力して長沙の領主を討伐、長沙の領主は討たれてしまいました。これが紀元後304年の出来事です。しかし長沙の領主が倒された後も河間、成都、東海の領主は協調することなく主導権を争うこととなりました。この三者の争いを勝ち抜くこととなったのは東海の領主です。東海の領主は異民族の勢力をも取り入れ兵力を増強していました。まず成都の領主を討伐し、その後河間の領主の命も奪いました。こうして楚、汝南、趙、斉、河間、長沙、成都の領主を務めていた皇族の方々は命を落とし、東海の領主は紀元後306年に勝ち残り、皇帝の補佐を務める東海の領主は中央の政治を動かす立場となります。この306年に至るまでの外戚、皇族間の争いが八王の乱(はちおうのらん)です。せっかく勝ち残った東海の領主ですが恵帝さんが306年に死去した後即位した懐帝(かいてい)さんとの関係が悪化。懐帝さんによって討伐の命令が出され中央政府から追い出されてしまいました。その後間もなく異民族匈奴(きょうど)が晋の都を襲撃します。晋国内が混乱している間、異民族勢力の力が増し、匈奴の攻勢を撃退できず懐帝は捕らわれの身となり紀元後313年に処刑されてしまいました。それだけにとどまらず晋の後継の皇帝として擁立された愍帝(びんてい)も匈奴との戦いに敗れ命を奪われます。愍帝さんが戦いに敗れ皇帝の座から引きずり降ろされたのが紀元後316年で、これをもって晋(西晋)は滅亡してしまったのでした。

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今回は司馬炎さんが魏王朝の皇帝から皇位を奪って建国した晋王朝の滅びる過程について取り上げました。魏王朝同様、短い期間しかもたなかった国ですが、どういう理由で滅んだのかについてはやはり関心があり、今回のテーマとしてみた次第です。晋の場合は他の一族に皇位を禅譲して滅んだわけではなく、外敵に攻められてそれを撃退できずに滅ぼされてしまったというのが結論ではありますが、記事を作っていて異民族に攻められて負けてしまうくらい国内事情が滅茶苦茶になってしまって弱くなっていたというのも滅亡の要因の一つということにして支障はないのではないか?という印象を強く持ちました。武帝こと司馬炎さんが死去してから26年の間によくもまぁこれだけ争いが立て続けに起きたものです。皇帝の奥方の一族である外戚と宦官の対立なんていう話は漢の時代もありましたから、外戚勢力が政治を牛耳るようになったことに対して皇族らが反旗を翻して実権を奪い返すということはあるとしても、外戚がいなくなった後に皇族同士の間で潰し合うことになるのですから救いがありません。魏が滅んでしまった理由を分析して司馬炎さんのとった政策、皇族たちに広い領地と軍勢を動かす権限を与える、というのが裏目に出てしまいました。王朝内の諸勢力が争ってお互いに消耗し、後に強大な軍事力を持った異民族が侵略してきて王朝を滅ぼしたというのは故事成語の「漁夫の利」のようなものですよね。晋が滅んでしまったのでは皇族たちは一体何のために争ったのかということになってしまいます。国を滅ぼさないためにも本当に気を付けなければいけないことかと思います。皇族間でうまい具合に権益を分配するなり妥協することが出来なかったものなのでしょうか。また、中央政治に携わる皇族が豪勢な生活におぼれるとか、政治的な権限を独占しようとするといった点も今回の話の中でたびたび見られたので、なにか王朝の中央政府には魔性のようなものがあるのだろうかと不思議に感じてしまいました。中国大陸の王朝というと文字通り大国ですから贅沢の度合いもスケールが桁外れで人の感覚を狂わせてしまうのかもしれませんね。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では写真ACで提供されている画像を使用させていただいております。

古代の王朝の滅亡について触れている話「殷王朝が滅亡した理由は何だったと言われているのでしょう」はこちらです。

そもそもの混乱の遠因とも言える後漢の衰退について触れている話「後漢が衰退した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

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