三・一独立運動とは?この運動の原因や運動の影響についても

三・一独立運動とは

 

三・一独立運動(さんいちどくりつうんどう)というのは西暦1919年の3月1日に朝鮮半島の京城(けいじょう、現在の韓国のソウル)にある仁寺洞(いんさどん)という地域で複数の朝鮮の宗教関係者が朝鮮半島の日本からの独立を宣言した事により、それをきっかけに朝鮮半島全域に広がっていった、独立を求める運動や暴動行為です。1910年に朝鮮の国、大韓帝国を日本国が併合するという条約が結ばれました。そのため当時は日本国が朝鮮半島を統治する状態となっていました。この三・一独立運動はデモ行進という平和的な意思表示の場合もあれば、警察署などの治安機関関連施設や役所などを襲撃したり、放火、破壊、暴行が行われる暴動となる場合も多数あったという指摘があります。秩序維持目的で対応するにも警察では足りなかったようで当時朝鮮半島を統治していた日本側は軍隊も出動させました。抵抗も激しかったようで諸説あるのですが当時統治していた日本側の記録では350人ほどの朝鮮の人たちが死亡し800人ほどの人たちが負傷したと報告されています。一方朝鮮側の報告では日本側の弾圧で7500人ほどの方が亡くなり、45000人ほどの方が負傷したという内容になっているそうです。いずれにしてもたくさんの朝鮮人の方がこの出来事で命を落とす結果となりました。治安維持にあたった日本側でも犠牲者が出ています。亡くなった人は8人、負傷した人は158人にのぼったそうです。この運動、暴動の動きは3月1日以降2か月ほどで落ち着いていきました。抵抗する朝鮮の人たちと治安維持にあたる日本側の警察や軍との衝突で結果的にたくさんの朝鮮の方が命を落とすこととなってしまった堤岩里事件(ていがんりじけん)はこの一連の運動、暴動の中でも有名な出来事のようです。

 

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三・一独立運動の原因

 

1919年という時期はドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国が第一次世界大戦で敗れ東ヨーロッパでオーストリアに抑圧されていた他の民族の人々が独立する動きが出ていました。また当時の世界で有力な国であったアメリカ合衆国の大統領ウィルソンが第一次世界大戦後の世界政治のあり方として提唱していた内容、「十四カ条の原則」の中でオーストリアやトルコ帝国の支配下にあった他の民族の自治を認めるべきだと主張していました。この主張に刺激を受け日本に支配されている朝鮮民族も自分たちの民族で政治を行うべきだ、独立するべきだと主張する人たちが増えることとなりました。第一次世界大戦の戦勝国側が講和内容を協議するために開かれていた会議であるパリ講和会議に対して朝鮮の独立を認めてくれるよう要請するという動きもあったそうです。また1919年の1月に大韓帝国の皇帝だった高宗(こうそう)さんが亡くなられました。朝鮮半島に存在した国、大韓帝国のシンボルとも言える方が亡くなり、しかも3月3日に高宗さんの葬儀が行われることとなっていました。このことも3月1日に独立宣言が一部有志の間で行われた理由となったという指摘があります。

 

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三・一独立運動の影響

 

このような動きが朝鮮半島で発生したことについて当時の日本政府は重く見たようで同じような事件が起こるのを避けるため、朝鮮半島地域の治め方を変更したそうです。警察業務は軍の憲兵ではなく警察官が行うようにしたり、行政の職員、役人として朝鮮の人たちを採用するよう努めたり、言論や集会に関する規制を緩めたのだそうです。他にも1926年に中心地の京城に京城帝国大学を設置することとなりました。朝鮮半島に大学が作られていないことに対する不満があったことを理由に行われた政策のようです。その一方、この独立運動をきっかけにして日本側は朝鮮の人たちが日本国や日本の皇室に対する忠誠心を持つような教育を朝鮮半島でおこなっていったという指摘もあります。また、独立運動に参加し日本の治安機関から逃げて国外に亡命した人たちもおり、そのような人たちは国外で独立を求める活動を続けることとなったため、この独立運動を機会に国外での活動も盛んになっていったそうです。

 

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今回は三・一独立運動を取りあげてみました。日本が朝鮮半島を統治していた期間に発生した、日本が朝鮮半島を支配していることを理由とする大変有名な事件ですし、日本史の授業で学んだ気もしますが一部の人が独立を主張して捕まったくらいの漠然としたことしか記憶になかったため、もう少し詳しく調べてみようかなと思いました。日本側の強い弾圧と朝鮮人側の強い抵抗もあって激しい衝突となった出来事だったということを初めて知る結果となりました。また、死亡者、負傷者に関し当時の日本の当局側と韓国側では数字に大きな違いがあることも知りました。私のような者は少し調べただけですから、正確な数字などわかるはずもありませんが日本当局の発表している人数を見ても本当にたくさんの朝鮮人の人たちが亡くなっていることがわかります。民族意識が明確となっている人たちの国を吸収、併合すると強い反発がいずれ発生するということをこの三・一独立運動は示しているように思います。容易に統治できるなどということはありえないのでしょうね。日本が他国に支配されたらということを想像するとやはり同じ動きが出るのではないでしょうか。以前の記事で取りあげもしましたが日本と朝鮮国の関係がこじれてうまく国交が開けず、結局江華島事件や日朝修好条規という不平等な関係になっていってしまうのですが、日本と朝鮮の国が対等な二国間関係として友好関係を結んで平和的に明治時代以降を切り抜けていく方法は本当に無かったんでしょうか。日清戦争に反対していた勝海舟さんに意見を聞いてみたいところです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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