信長さんの嫡孫を秀吉さんはどのように待遇したのでしょう

秀吉さんによる信長さんの嫡孫への待遇

 

天正10年、西暦1582年に京都で織田信長さんが家臣の明智光秀さんに襲撃され命を落とします。中国地方の有力戦国大名である毛利家と対峙し本来であれば信長さんや明智さんとともに大軍をもって毛利に攻勢をかける予定だった(後の豊臣当時は羽柴)秀吉さんは急きょ毛利勢と停戦の約束をおこない軍勢を近畿地方に引き返しました。現在の大阪府北東部、京都府南西部の境あたりで山崎の合戦と呼ばれる戦を秀吉さんと明智さんの軍勢は繰り広げ結果的に秀吉さんが勝利します。自国領に撤退しようとした明智さんは道中で住民の襲撃に遭い大怪我をして自害する結果となりました。信長さんの仇討に成功した形となった秀吉さんは織田の家臣の中で影響力を強めることとなります。明智さんを倒した後に織田家の後継者としてどの方に担当していただくかを決定するため、一部の織田の家臣たちの間で話し合いが持たれます。清州会議(きよすかいぎ)と呼ばれる出来事ですが、この出来事の中で織田信長さんのお孫さんの名前が登場します。三法師(さんぼうし)という幼名のかたです。このかたは織田信長さんの後継者とされていた織田信忠(のぶただ)さんのお子さんです。普通に考えると織田家の跡を継ぐ立場のお孫さん、嫡孫(ちゃくそん)にあたるかた。後に織田秀信と名乗ったそうですが、天下人となる秀吉さんはこの秀信さんをどのように待遇したのでしょう。ある程度尊重はしていたようですけれども、武士の頂点、最高実力者としての織田家後継者にふさわしい待遇ではなかったようです。

 

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跡取りという立場にはすえることとなります

 

跡継ぎを決める清州会議の場では秀吉さんの、織田家の跡継ぎは嫡孫である三法師さんとするべきという意見が通り、重要な立場に押し上げられることとなります。まだ何の分別もつかない年齢で近江国(現在の滋賀県にあたる地域)の一部、3万石の領地を持つこととなりました。幼い間三法師さんの立場を補佐する後見人として信長さんの息子さんたち、つまり三法師さんの叔父さんにあたる人たちが担当したそうですが、秀吉さんと対立したことで織田信孝(のぶたか)さんという人はその立場から外され、織田信雄(のぶかつ)さんが代わりとなっています。秀吉さんと良好な関係の人物のもとで育てられていきました。

 

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成長後

 

9歳になって元服した後は秀吉さんによる小田原攻め、有力戦国大名の北条家を征伐する戦に参戦したなどという説もあるそうです。その後14歳になって秀吉さんは秀信さんに美濃(現在の岐阜県南部にあたる地域)の一部の領地、13万石を与えています。秀信さんは秀吉さんの傘下で朝鮮出兵にも加わったと伝えられています。また同じ頃、中納言(ちゅうなごん)と呼ばれる朝廷の官位を授かりました。官位を授かる話については武家の中で最高実力者であった秀吉さんの意向が当然影響していたものと思われます。その後は秀吉さんから関白職を引き継ぐこととなった豊臣秀次さんのもとで活動するような時期もあったようです。このように豊臣政権下では秀吉さんに臣従する立場の武将、一領主としての立場を認めてもらっていました。そのような中、秀吉さんが亡くなる慶長3年、西暦1598年となります。

 

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今回は清州会議で織田家の跡取りとされた人物について一部取りあげました。秀吉さんが明智さんを倒した後の出来事を扱ってみようと思ったのですが、信長さんのお孫さんと秀吉さんとの関係について関心を持っている方も多いようなので、嫡孫にあたるかたを秀吉さんどう扱ったのかについて記事にしてみました。秀吉さんは秀信さんに対し一定の領地を保有することを認めたり、官職を得て位の高い立場にするような配慮はしました。しかし本来信長さんが生きていた頃のような国内の武家の最高実力者であった織田家の頂点としてふさわしい立場と権限を秀吉さんが秀信さんに差し出すようなことは結局ありませんでした。例えば秀信さんを将軍なり関白にするような、そういったことはしなかったわけです。織田家家臣の秀吉さんが織田家から権力を奪い取ったと見ることも出来るかと思います。秀吉さんが織田家後継者の秀信さんをむごたらしく殺すような仕打ちをしなかっただけ、まだましと言えるかもしれませんが。明智さんのように信長さんの命を奪ったわけではもちろんありませんけれど、信長さんのお子さんである信長さんの三男と言われる方、織田信孝さんと対立し、戦もし、降伏に至らしめています。その後再度秀吉さんに刃向う信孝さんも信孝さんではありますが、結局この方は自害することとなりました。織田家の家臣として徹底するのであれば秀信さんの最初の後見人であった信孝さんの意向には当然従うべきところだったのでしょうけれどそのようなことになっています。信長さんは室町幕府将軍である足利義昭の家臣の立場であったものの権限を奪い、秀吉さんは信長さんの死後に権力を織田家ではなく自分のものとし、家康さんは秀吉さんの死後に権力を豊臣家から奪います。権力を巡る動きというのはこういったことが当たり前なのかもしれませんけれど、立て続けとなるのですから物騒と言えば物騒な話です。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

秀吉さんの関白就任について触れている話「豊臣秀吉さんが関白に任じられたのはいつ頃だったのでしょう」はこちらです。

秀吉さんのお子さん、秀頼さんについて触れている話「大坂夏の陣と冬の陣とではどっちが先だったのでしょう」はこちらです。

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