忠臣蔵のあらすじは簡単に説明するとどんな内容なのでしょう

簡単な忠臣蔵のあらすじ

江戸時代の出来事を題材にしたお話に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では私なりに江戸時代から人々の間で馴染みのあったお話、忠臣蔵(ちゅうしんぐら)のあらすじを簡単に書いてみたいと思います。忠臣蔵は江戸時代中頃、徳川綱吉さんが将軍だった時のお話です。現在の兵庫県の一部地域にかつて存在していた赤穂藩(あこうはん)という国の領主、浅野長矩(あさのながのり)さんというかたが恨みを理由に江戸幕府将軍の家臣である吉良義央(きらよしひさ)さんを短刀で斬りつけました。江戸城内で発生したこの出来事によって浅野さんはすぐに切腹するよう幕府から命じられ、切腹で自害。幕府は斬りつけられた吉良さんについては特におとがめ無しといった対応でこの件を片付けます。ただ赤穂藩はこの件で改易(かいえき)、取り潰しとなり浅野さんに仕えていた方々は浪人の身となりました。旧赤穂藩で家老、重臣だった大石内蔵助(おおいしくらのすけ)さんは浅野長矩さんの弟さん、浅野長広(あさのながひろ)さんを領主とした赤穂藩を認めてくれるよう幕府に嘆願したものの幕府は相手にしてくれませんでした。

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赤穂藩再興を断念するしかなかった大石さんは志を同じくする旧赤穂藩の家臣の人たちと共に主君の敵、吉良義央さんを討ち取る決意をします。大石さんら旧赤穂藩家臣はおのおの江戸に集結し、かたき討ちを警戒する吉良側に隙が出来るのを待ち続け、浅野長矩さんが命を落とされてから二年弱の後に吉良さんのお屋敷に討ち入り吉良さんを拘束、命を奪いました。主君の敵を討ったというまれにみる正義のおこないとして評価する意見もあったそうですが幕府は吉良さんのお屋敷に討ち入った大石さん以下旧赤穂藩の家臣たちに切腹を命じ、大石さんたちはそれに素直に従いお亡くなりになります。このように忠臣蔵というのは無念な亡くなり方をされた主君の為に、主君の家来だったかたたちが協力して自らの命を顧みずにかたき討ちをするというお話です。

長矩さんはなぜ吉良さんを斬りつけたのでしょう

江戸城内で刀を抜いてはならないという規則がある中、短刀を抜いて吉良さんに切りかかてしまった長矩さん。長矩さんもそのようなことをしてしまったらどんな事態になるのか冷静に考えれば当然わかったことなのでしょうが、やってしまったのですね。短気な方だっただの何だのと長矩さんを評する見方もあるようですが、余程のことがない限り城内で斬りかかろうなどということはしないでしょう。幕府から朝廷の使節の接待役を担当するよう指示された長矩さんはしきたりに詳しい吉良さんから具体的な応対方法を教えてもらうことになっていました。

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しかし忠臣蔵の中では吉良さんが長矩さんに度重なる嫌がらせをおこないます。吉良さんは長矩さんに嘘の情報を伝え、接待のお役目の中で大変な恥をかかせることとなりました。忠臣蔵の話の中ではそういった展開なのですが実際に吉良さんが長矩さんに何かしたのかというと記録も無く陰険なことをした証拠のようなものは見つかっていないようです。吉良さんが長矩さんに嫌がらせをした理由については赤穂藩が吉良さんに贈ったお礼の意味のお金の金額が少なかったなどといった説もあるようですがはっきりとはしていません。吉良さんが赤穂藩の有名な塩の製造方法に関する情報を求めたのに長矩さんが教えてくれなかったからなどといった説もあるようです。

喧嘩両成敗

喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)という考え方が忠臣蔵の中で出てきます。喧嘩や争いごとが起きた場合、理由に関わらず争った双方を同じように罰するという対応方法です。このような争いごとの解決方法は室町時代に出てきたそうですが江戸時代でもその方法で事態を収拾させることが普通だったようです。しかし浅野さんと吉良さんの件では浅野さんが切腹を命じられて吉良さんはおとがめなし、処罰無しで偏りがありました。この喧嘩両成敗の理念に反する裁きとなったことで一方的に罰を受けた形の赤穂藩側は大変不満を持つこととなりました。討ち入りをした旧赤穂藩の家臣の方々は切腹を命じられたわけですが、この時は吉良家も取り潰しという制裁を幕府から加えられています。両成敗というのはこういった対応を言うのでしょう。

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今回は有名な江戸時代のお話、忠臣蔵について一部取りあげました。社会や歴史の授業で重要事項として指導される出来事とは違うのかもしれませんが、たくさんの人々が知っている話ですし、江戸時代には一般の方々も親しんだお話と言われていますのでさわりだけでも知っておくことは損ではないと思いましたし、自分自身特に詳しいわけでもないので曖昧に記憶していた内容を確認したく今回のようなテーマの記事にしてみました。大石さんは吉良さんを討ち取る計画を立てる以前に赤穂藩がまた幕府に認められるよう努力していたんですね。長矩さんの弟さんを藩主にした赤穂藩の存在を幕府も認めていたのなら吉良邸討ち入りは起こらなかったということなのかもしれません。一人の主君の逆上でたくさんの人々が翻弄されてしまうわけですから藩主の責任は本当に重大です。嫌がらせなど、挑発のようなことをされても泰然としていられる、冷静でいられるようにするためにはどんな訓練をすると効果があるのだろうなどと浅野長矩さんの行動を記事にしていて思いました。否定的な感情が湧き上がってくるような状況を極力避けるようにするくらいのことしか個人的には思い浮かびません。偉い立場の人は偉い立場の人でそれなりの大変なことがあるものですね。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では松波庄九郎さんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

大石内蔵助さんを尊敬していた近藤勇さんについて触れている話「新選組の近藤勇さんは最後にどのようになったのでしょう」はこちらです。

大石さんと同様、忠臣として名高い楠木正成さんについて触れている話「楠木正成さんと後醍醐天皇はどのような関係だったのでしょう」はこちらです。

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