第一次長州征討が終了する頃の長州藩内部で発生した抗争

第一次長州征討の結末と討伐軍が示し長州藩も受け入れた内容

 

第一次長州征討は実際に武力衝突には至らず、禁門の変に関わった家老や軍事行動の中心となった藩士を厳罰に処すること、長州藩に逃げた攘夷派の公家の人たちを長州藩から別の場所に移すこと、藩主毛利敬親(たかちか)公や彼の養子が謝罪しその証とする文書を提出すること、主に以上のような約束を討伐軍との間で交わしました。謝罪文書が提出され長州征討は終了となりました。

 

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長州藩内部の主導権争い

 

当時の長州藩には幕府に服従し幕府の要求にそのまま従うことを主張する勢力と受け入れられない内容については幕府の要求と言えども従わないとする勢力に分かれていました。

第一次長州征討の際には幕府の要求に従う勢力が主導権を握り禁門の変で指導的立場であった人物に厳罰を科す結果となっています。このまま幕府に従う勢力が長州藩を動かしていくように思われました。

しかし高杉晋作はこの状況に納得せず武士階級以外の人員も集めた武装組織を率いて藩の施設を攻撃したり藩の軍艦を奪うなどの行動に出ました。まだ長州征討の為の討伐軍が解散する前の話です。

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しかし討伐軍は高杉の動きに対して行動を起こすことは無く1864年の12月下旬に長州征討を終了してしまいます。高杉が率いる勢力はその後も長州藩の施設を攻撃し戦果を収めていきました。各地での作戦の成功で支持する人々が増え支援も増えていったそうです。

藩内の幕府に従う勢力との戦闘でも勝利をおさめ、高杉が率いる幕府抵抗派の勢力が勝利する可能性が濃厚となっていきます。

そのような情勢の中、毛利敬親(たかちか)公は幕府に従う勢力を藩の重役から外すという判断をしました。これによって高杉さんらの武装蜂起は収束し藩の主導権は幕府に従う勢力から幕府に抵抗する勢力に移ることとなりました。

第一次長州征討の時には幕府に謝罪文書を提出した毛利敬親公ですが、この一連の出来事の後は容認できない幕府の要求には従わないという方針をとることとしました。この長州藩の変化に対し幕府は態度を硬化させ、再び長州を攻める動きにつながっていきます。

 

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今回は第一次長州征討最中から始まっていた長州藩内部での主導権争いについて取り上げてみました。この一連の出来事は一部で「元治(げんじ)の内乱」と呼ばれているそうですが教科書で取りあげられるほど有名な名称というわけでもないようです。しかし倒幕の動きにつながる非常に重要な出来事だと思います。

高杉さんが蜂起した時は大して協力する人の人数も多くは無かったそうですが高杉さんのその後の行動が影響し勢力は拡大したそうです。また高杉さんの行為を鎮圧するべき長州藩施設関係者の一部は必ずしも熱心に高杉さんの勢力と対抗しようとはしなかったようです。幕府に従わないという高杉さんたちの考えに内心賛成だったのかもしれませんね。

幕府に従う考えの勢力との戦闘でも勝利したというので、お侍さんではない人たちで構成された武装組織でも大変強かったということになります。奇兵隊という組織は有名ですよね。

疑問に感じるのは幕府が統治しても長州藩が統治してもあまり大差無いであろう農民や商人などの人たちが積極的に高杉さんの勢力に協力したという事実です。一体どのような理由で高杉さんたちの勢力に志願したのでしょう。幕府が長州を統治したら武士以外の一般人もひどい扱いを受けるというような噂、憶測が広まっていたんでしょうか。

また長州藩主毛利敬親公の行動についても奇妙に感じました。長州征討の時には幕府の指示に従う勢力が藩の重役であったということなので、そのような人事を敬親公も承認しているはずだと思うのです。敬親公は正式に幕府に謝罪もしていますし。しかしその体制に不満を持つ幕府抵抗派が藩内で武装蜂起したのなら敬親公はなぜ速やかに高杉さんたちに軍事行動を即刻中止するよう命令を出さなかったのでしょう。高杉さんたちは藩主に忠誠を誓う立場でしょうからそのような命令があれば高杉さんたちも従ったんじゃないでしょうか。それとも当時の長州藩では藩主は主体性を発揮できない困難な立場だったのでしょうか。だとしたら敬親公も様々な勢力に振り回されて気の毒な感じもしますね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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