なぜ薩摩藩の実力者、島津久光さんは倒幕を選択したのか

島津久光さんが倒幕に傾いた理由

 

朝廷が関与し幕府の有力者、有力諸大名が参加する会議が実現した際に薩摩藩と幕府側の立場として参加したと思われる人物の間で意見が対立したことが理由であると考えられます。別項目でもう少し詳しく書きます。

 

元々の島津久光さんの立場、考え

 

島津久光(ひさみつ)さんは薩摩藩主島津忠義(ただよし)公(お殿様です)の父親でした。そのため藩内での発言力は大きく藩を仕切っていた方のお一人と言えます。

久光さんは幕府と朝廷が協力して政治課題に対応する体制が望ましいという考え方である「公武合体(こうぶがったい)」を支持する人でした。その体制で自分が所属する薩摩藩のような有力な藩も政治過程に関わる、つまり朝廷、幕府、有力大名が協力して政治を行うのが望ましいという考えでした。

幕府内の有力者だった当時の幕府老中安藤信正(のぶまさ)公が過激な攘夷派の勢力に江戸城の近くで襲撃され(坂下門外の変)失脚してしまった後江戸幕府の体制がぐらついてしまうことがありました。

その時に朝廷と相談し朝廷の使者を護衛する名目で江戸まで行き幕府の政治を改革するよう朝廷の名義で要請したのはこの島津久光さんでした。1862年のことです。その結果幕府は文久の改革を行うことになります。一橋慶喜(よしのぶ)公、越前藩主だった松平慶永(よしなが)公、会津藩主だった松平容保(かたもり)公といった有能な人材とされていた人たちが幕府の要職に就くこととなりました。

このように朝廷や有力大名も関わり幕府と協力して政治を行うのが望ましいと久光さんは考え行動していました。

 

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長州勢力が朝廷からいなくなった後

 

攘夷派は武力で外国を日本から追い払い、幕府を倒して天皇中心の政治を実現することを理想としていました。1863年あたりの朝廷は長州など攘夷派勢力の影響が大変強く、孝明天皇を担ぎ出し攘夷行動に出陣させてしまおうという話が現実化してしまいそうな事態が発生していました。それに対し会津藩や薩摩藩などが協力して京都御所を固め攘夷派の公家の方たちを朝廷の意思決定に加えないようにし、朝廷の指示が出たことで長州藩は京都御所の護衛から外れてしまいました。この事件は「八月十八日の政変」と呼ばれる出来事ですが、この政変によって朝廷で攘夷派勢力は力を失い公武合体勢力が朝廷の主導権を握ることに成功します。

その結果朝廷内で幕府側の有力者や有力な藩の藩主クラスの重要人物が会合を開き諸問題の解決にあたるという仕組みが一時的ではありましたが出来上がりました。その会議は「参与会議(さんよかいぎ)」と呼ばれたのだそうです。この会議には薩摩藩からは島津久光さん、越前藩からは松平慶永(よしなが)公、この時は前藩主だったそうです。土佐藩からは山内豊信(とよしげ)公、前藩主。宇和島藩からは伊達 宗城(むねなり)公、前藩主。会津藩からは松平容保(かたもり)公、藩主。そして幕府からは将軍後見職の一橋慶喜公が参加していました。幕府関係者、有力藩の実力者が参加しています。

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その時点で課題になっていた案件についてそれぞれの立場で意見を主張し話し合いをしました。しかし当時既に開港し諸外国との貿易の拠点となっていた横浜港を朝廷の意向通りに閉じて他国と貿易できないようにするかどうかについて一橋慶喜公と島津久光さんが鋭く対立したのだそうです。

島津さんは横浜港を閉じてしまったら諸外国を刺激してしまうのでこれまで通り港を使って貿易すべきだという立場でした。しかし幕府の代表であるはずの慶喜公は横浜港を閉鎖すべきだと主張したのです。慶喜公が横浜港を閉鎖するべきだと主張したことについては、会議での薩摩藩の発言力を抑えるためとか、1863年5月に幕府は朝廷からの指示があったことで攘夷を実行すると朝廷に約束したためなどと言う意見もあるようです。いずれにしろ意見対立が目立ってしまいます。

結果的に1863年の暮れに立ち上げられた「参与会議」は1864年の2月以降参与会議のメンバーが次々に辞めていってしまいました。数か月で会議が機能しなくなったのです。

その3年後にも薩摩藩を含む有力諸大名がその時は将軍となっていた一橋慶喜(将軍になってからは徳川慶喜)公と話し合う機会が設けられましたがその話し合いでも薩摩藩の意向は薩摩藩の望んだようには反映されませんでした。

このように薩摩藩の立場から見ると政治の意思決定から幕府は薩摩藩を排除しようとしているように思われました。そのため幕府と協力することによって薩摩藩も政治に参画する、という薩摩藩の目的を実現するのは無理であると判断する結果となったようです。

 

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今回の記事では薩摩藩がなぜ倒幕に傾いていくのか取りあげてみました。あまり教科書でも扱っていないようで薩摩藩は西郷さんや大久保さんのような下級武士が薩摩藩の政治の主導権を握った、というような説明くらいしか出ていませんね。なぜ下級武士がそんなことをできるのだろうと奇妙に思いましたが、薩摩藩の実力者が幕府との協力に見切りをつけたというのなら薩摩藩が倒幕に傾いていくのは自然かもしれません。久光さんが幕府の姿勢に愛想を尽かしたと思われる今回取りあげた出来事を知って薩摩藩の方針変更について少しわかったような気がしました。

ただ幕府は幕府で外様大名の薩摩藩が政治に関わろうとするのは不気味だったのかもしれませんね。「薩摩藩は信用できるのだろうか?仲が良いふりをして、いずれは幕府を潰そうとしているんじゃないか?」というような疑心を持っていたのでしょうか。幕府が有力な外様藩を排除せずに協力して政治を行った場合どうなっていたのでしょうね。幕府と薩摩藩がその後協力して政治を行ったわけではないので確かめようはありませんが。薩摩藩が譜代大名の藩であったらもっと仲良くやれたのでしょうかね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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