なぜ幕府は第二次長州征討を決断したのか。原因について

第一次長州征討という出来事がありました

 

1864年の7月に朝廷での影響力を回復させることを目的に長州藩の勢力が京都に出兵し孝明天皇のいる京都御所を警護していた他の藩と武力衝突する「禁門の変 きんもんのへん」という事件が発生しました。この武力衝突の時に長州藩は京都御所に向かって発砲してしまい、そのことが理由で朝廷側を相当怒らせてしまいます。その結果朝廷は長州藩を朝廷の敵、「朝敵」と判断し幕府に長州藩を討伐するよう指示を出すこととなりました。「禁門の変」の後に朝廷による命令で実施された幕府の軍事行動が「第一次長州征討」です。

第一次長州征討では長州を討伐するために編成された諸藩の討伐軍が提示する大抵の要求に長州藩も応じたことで武力衝突には至りませんでした。長州藩主やその養子から謝罪文が提出され編成された討伐軍による第一次長州征討は終了となります。

 

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第一次長州征討が終わりかけていた頃

 

ただこの第一次長州征討の終え方に関し討伐軍のトップ徳川慶勝(よしかつ)公(尾張藩の藩主を務めたこともある方です)と幕府の中枢との間で考え方に違いがあったようです。

慶勝公は長州征討の討伐軍のトップに就くにあたって江戸幕府将軍から今回の長州征討に関する全ての権限を慶勝公に与えるということで引き受けたいきさつがありました。ということで全権が任されているので長州藩がどのような態度をとるなら長州藩を攻撃せずに長州征討を終了するかについても慶勝公が決定する権限を持っている。慶勝公はそう考えていましたし、そのようにしました。長州藩の藩主から謝罪文が提出されたことだし、他の提示した条件も長州は守ることになりそうだから長州征討はこれで終了しよう。そう考えて慶勝公は長州征討を終了します。

しかし幕府の中枢はその終わり方には納得せず討伐軍の慶勝公に長州藩の藩主とその養子、そして長州に逃れていた攘夷派の公家たちを江戸まで連れて来るよう命令しました。しかしその命令に慶勝公は従いませんでした。全権を与えられていたはずの慶勝公としては話が違うという思いがして不服だったことでしょう。

このようにして幕府中枢は長州藩主やその養子、長州に滞在していた攘夷派の公家たちを江戸に連れて来させたい考えでしたが、第一次長州征討ではそれが実現しませんでした。

 

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第一次長州征討後

 

幕府としては長州藩藩主とその子供を江戸に連れて来させたいのですが第一次長州征討軍のトップ、徳川慶勝公に幕府が命令しても全く動こうとしませんし幕府とつながりの強い藩に長州藩主と子供の出頭に協力を指示しても断られてしまいました。

そのため1865年の4月に長州藩の藩主と子供が江戸に出頭しない場合は江戸幕府将軍が出陣すると幕府側が表明します。京都にのぼる目的もありましたが1865年の5月にとうとう江戸幕府将軍、徳川家茂公が江戸を発つこととなりました。京都で孝明天皇に長州を討伐せよという命令をもらいそのまま長州に攻め込むことも考えられる状況です。

このように状況を見守っても長州藩の藩主、毛利敬親(たかちか)公とその養子が江戸に出頭する話が全く進展しませんでした。このことが幕府を第二次長州征討へ駆り立てていくこととなります。しかし第二次長州征討は上記のように将軍家茂公が1865年5月に江戸を出発したものの、すぐ長州への攻撃が行われることはありませんでした。なぜ実際の武力行使まで時間がかかったのかについてはまた別の記事で取りあげてみたいと思います。

 

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今回はなぜ幕府が第二次長州征討することを決めたのかについて取り上げてみました。毛利親子が幕府の指示通り江戸に出頭しなかったのが主な理由ということのようですね。長州藩側が指示に従わなかったのは長州藩の体制が変化したからということでしょうか。第一次長州征討の終わりごろから高杉晋作さんらが率いる幕府抵抗勢力が長州藩内で台頭し幕府の指示に忠実に従おうという勢力を藩の権力の中心から引き摺り下ろします。長州藩の路線が従幕府から反幕府に変わってしまったわけです。

ただ幕府に従う勢力が長州藩を仕切っていたとしても長州藩主とその養子を江戸に出頭させるという幕府の指示に従ったかどうかはよくわかりません。江戸に行ったら厳罰が待っているかもしれないと考えると藩主に忠誠を尽くす立場の家来たちは藩主に江戸に行ってくださいとは言えないようにも感じます。幕府は毛利親子を江戸に出頭させてどのような要求をしようと考えていたのでしょう。

毛利親子を江戸に出頭させるために幕府は尾張藩の重要人物徳川慶勝公や諸藩に協力するよう指示をしたのですが慶勝公や諸藩はそれに従わないという結果になりました。この結果を幕府はよくよく考えなければならなかったのではないでしょうか。それだけ当時の幕府は力が弱まっていたということを示しているように感じます。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

第二次長州征討関連記事「第二次長州征討の結末とそれに関わる幕府側の異変」はこちらです。

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