前田利家さんと徳川家康さんはどんな関係だったのでしょう

前田利家さんと徳川家康さんの関係

 

徳川家康さんは豊臣秀吉さんが亡くなった後、国内に存在する多くの大名との関係を強め、豊臣家の家来から征夷大将軍という立場になり武士勢力の頂点に立つこととなった人物であることは有名な話です。前田利家さんは豊臣秀吉さんが国内の政治を仕切っていた頃に秀吉さんから北陸の広大な領地の統治を任されていた有力大名の一人です。別の記事でも触れましたが秀吉さんの晩年に作った政治組織の中に五大老(ごたいろう)という役職がありましたが前田利家さんはその役職を担当する秀吉さんの政権の中でも重要な立場の人でした(家康さんも五大老の一員でした)。利家さんと家康さん、秀吉さんの政権の中で重要な立場であったこのお二人の関係はどうであったのでしょう。お二人とも織田信長さんが国内で勢力をどんどん拡大していた頃は信長さんとの関係が深かったわけですけれど、目立った接点は無かったようです。信長さんの亡くなった後は織田家中での権力闘争や信長さんと同盟関係だった家康さんと織田家中で台頭した秀吉さんの対立が強まって戦をすることになりますが、その頃に利家さんと家康さんは直接対決した関係ではなかったものの対立する陣営に与していました。秀吉さんが国内の大部分を支配し政治を仕切るような頃は利家さんも家康さんも秀吉さんの臣下、家来という同じ立場でしたので敵対するようなこともありません。しかし秀吉さんがお亡くなりになると家康さんは自己の権勢を拡大する動きに出たため利家さんはその家康さんの動きを抑え豊臣家を武士の頂点とする秩序を守ろうとします。お二人の関係で目立つのは秀吉さんがお亡くなりになった後の時期、激しく対立した頃だと言えます。

 

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信長さんの死後

 

本能寺の変(天正10年、西暦1582年)によって信長さんが亡くなり織田家中で権力闘争が起きます。秀吉さんと織田家臣の中で有力な武将だった柴田勝家さんが争い、柴田さんが敗れます(賤ヶ岳の戦い しずがだけのたたかい 天正11年、西暦1583年)。柴田さんに与して秀吉さんと戦った前田利家さんは秀吉さんの勧告に応じて降伏。それ以降は秀吉さんの配下として行動することとなります。その後秀吉さんは信長さんの息子、織田信雄(のぶかつ)さんと対立し、信雄さんと同盟を組んだ徳川家康さんとの連合軍と争うことになります。このころ北陸に拠点を持つ前田さんは徳川家康さんと連携する佐々成政(ささなりまさ)さんという武将の勢力に攻撃されることとなりました。利家さんと家康さんの直接対決ではありませんでしたがこの頃は利家さんが秀吉さん側だったので家康さんと対立関係にあったこととなります。秀吉さんは家康さんらとの戦、小牧長久手の戦い(こまきながくてのたたかい 天正12年、西暦1584年)に戦闘では敗れたものの致命的な打撃を受けずに撤退、速やかに織田信雄さんと和睦し家康さんのそれ以上の攻勢を封じました。秀吉さんは国内での勢力を拡大し戦わずして家康さんを家来にすることに成功します。これで利家さんと家康さんは秀吉さんという主君の家来という同じ立場となりました。

 

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秀吉さんの死後

 

しかし天下統一を成し遂げた秀吉さんが亡くなった後、家康さんが有力諸大名との間で近親者の婚姻関係をどんどん結び、自分の勢力に取り込む動きを意欲的におこないます。これは秀吉さんが警戒していたことであり、秀吉さんは生前、勝手に大名の近親者同士で結婚してはいけないという規則を設けていたそうです。ルール違反を公然と家康さんがおこなうようになりました。これに対してはっきりと家康さんを批判したお一人が前田利家さんです。この件でお二人の対立は強まり諸大名が利家さんと家康さんの二手に分かれて、戦一歩手前のにらみ合いとなる事態にまで発展しました。利家さんのはたらきかけもあり結局家康さんは今後規則を破らないと誓う文書を作成し戦には至りませんでした。このように利家さんが御存命の間家康さんも好き勝手出来なかったのですが、利家さんが慶長4年、西暦1599年に亡くなられた後は重しが取れたように、家康さんはまた権勢を強めるための活動をおこなうようになります。

 

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今回は前田利家さんと徳川家康さんの関係について取り上げました。秀吉さんと利家さんの関係については先日の記事で触れましたが、秀吉さんの次の天下人である家康さんとの関係はどうだったのかと思いこのようなテーマの記事にしてみました。利家さんの晩年まで目立った関係というほどの関係も特に無かったのかなという気もしますが、上でも触れたように秀吉さんが国内で台頭していく過程で対立する関係となったこともあるということを知ることが出来ました。秀吉さんから息子である秀頼さんの後見人になってくれと頼まれるくらい信頼されていた利家さんですから豊臣家による政権が維持されるよう利家さんなりに配慮したのでしょうし、そうなればどうしたって天下を狙おうとする家康さんとは対立せざるを得ないのでしょう。利家さんは人望があり戦になった場合に利家さん側につく大名は多く出るだろうといった見通しがあって家康さんも利家さんとの戦を避けたという見方もあるようです。大いくさとなるところを戦わずに済んだということで、やはり家康さんも相手が強いと思うと矛を収めて戦を避けるようになるわけですから、平和を望むのなら「自分と戦うと痛い目に遭うよ」と敵に思わせるような状態を維持したほうがいいのだろうなぁと改めて感じた次第です。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

前田さんと秀吉さんの関係について触れている話「前田利家さんと秀吉さんの関係はどうだったのでしょう」はこちらです。

家康さんと戦国大名、北条家との関係について触れている話「戦国大名の北条家と徳川方はどのような関係だったのでしょう」はこちらです。

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