島津久光の行動が契機となった「文久の改革」の内容とは

「文久の改革」の内容

 

「文久(ぶんきゅう)の改革」は朝廷が幕府の政治のやり方を変更するように幕府に求めた結果、西暦1862年(文久2年)に行われました。

代表的な変更点に「人事」があげられます。幕府内に新たな役職を作ることとなりました。有名なものに「政事総裁職(せいじそうさいしょく)」、「京都守護職(きょうとしゅごしょく)」があります。「将軍後見職(しょうぐんこうけんしょく)」はこの時に作られた役職ということではないようです。

「政事総裁職」は幕府の政治に関し将軍を手助け、補佐する役職のようです。この役職には越前福井前藩主の松平慶永(よしなが)公が就くこととなりました。朝廷からは慶永公を大老職とするよう求められたそうですが、幕府内で検討した結果大老職の前例を考慮するとそれは難しいということになり新しい役職を作って慶永公がそれに就任した、ということのようです。

「将軍後見職」も将軍の手助けをする役職となります。この役職は文久の改革以前から存在していた役職です。この文久の改革で注目すべきはこの改革時に朝廷が一橋慶喜(よしのぶ)公をその役職に就けるよう求め幕府がそれに従ったという点かと思います。

「京都守護職」は京都の治安を維持することを目的に作られた役職です。役職名通りですね。江戸幕府には京都の治安を守るために既に「京都所司代(きょうとしょしだい)」という機関がありました。しかしこの文久の頃、京都は大変物騒な街になっていました。尊王攘夷派を自称する浪人が政治的な理由で重要人物を殺害したり経済的な目的で強盗まがいの事件をたびたび起こすようになってしまっていたからです。

とても京都所司代では対応が出来なかったことからこのような役職が作られることとなりました。会津藩のお殿様松平容保(かたもり)公が就任することとなりました。ただ、この話を容保公は最初から断り続けていたのだとか。無理にやらされて本当にお気の毒な話です。

 

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また参勤交代という江戸時代の有名な決まりがありました。藩のお殿様は一年ごとに自国と江戸を往復するという決まりです。

文久の改革ではこの参勤交代を3年に一回するだけでいいこととしました。参勤交代の頻度を減らしたのです。参勤交代は多額のお金を使う、藩にとって大変な義務でしたが、文久の改革で負担を軽くしたということになります。この緩和の理由は日本の軍備を充実させるためのお金をそれぞれの藩が確保するためだとされたようです。

 

また幕府に陸軍が作られることとなりました。もちろん江戸幕府発足以前から徳川の武装組織はありましたが、この時に作られた「陸軍」は西洋式の軍隊であったという点でそれまでと異なります。

 

また蕃書調所(ばんしょしらべしょ)という外国の学問を研究する機関が既に存在していましたが「蕃書」はオランダの書籍を意味する言葉だったようでして、文久の時点では名称が実態に合わないことを理由に「洋書調所(ようしょしらべしょ)」となりました。

 

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島津久光の動き

 

この一連の改革は朝廷が主体となって幕府に求めたものではなく薩摩藩の実質的なリーダー、島津久光(ひさみつ)さんが朝廷に熱心に働きかけ朝廷を動かして実現したものでした。久光さんは当時の薩摩藩藩主、島津忠義(ただよし)公の父親です。忠義公の前の藩主は島津斉彬(なりあきら)公でした。斉彬公と久光さんは異母兄弟の間柄です。

井伊直弼公、安藤信正公と立て続けに襲撃され一方は殺害され、もう一方も失脚し幕府の体制は揺らいでおりました。また、尊王攘夷派が勢いづいていたため、独自の立場から体制の強化が必要と考えそのような行動をとったようです。久光さんも安藤信正公と同様に公武合体派の方だったそうです。尊王攘夷派の台頭を嫌っていました。朝廷からの使いであるお公家さんの護衛を口実に一緒に江戸に行き改革の必要性を朝廷の使いと共に幕府に訴え、それを幕府に認めさせます。この改革で14代将軍に一橋慶喜公を推薦し井伊直弼公から安政の大獄で弾圧されていた一橋派の有力大名の方々がまた表舞台に出てくることとなりました。

 

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安藤信正公が失脚した後のどの話題を調べようか考えましたが島津久光さんの行動はやはりとりあげたほうがいいのかなと思い、文久の改革を調べてみました。

井伊大老の時期にこんなこと(朝廷と一緒に幕政改革を求める)をやったら途端に謹慎処分を出されたのではないでしょうか。この強気な行動が可能だと薩摩藩のリーダー、久光さんが考えたくらい当時の幕府の力は弱まっていたんですね。

この時の改革で具体的に薩摩藩にとって得だったのは参勤交代の頻度が減って自由になるお金が増えたということくらいでしょうか。薩摩藩のお殿様が幕府の重役になったわけでもありませんし。さすがに外様大名が幕府内で重要な役職に就くのは、いくら幕府が弱くなったとは言っても無理な話だったということでしょうか。

西洋式の軍隊を編成するとか、京都の治安を維持するための対策をとるといった点は当時の状況を考えるともっともな対応と言えるのではないかなぁと感じました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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