千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らずとは?意味などについて

「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」の意味

 

故事成語「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」の意味は「能力のある人材というのはいつの時代もいるものですが、そのような有能な人材を上手く活用する力量を持った上に立つ人物というのはいつもいるものではありません、なかなかいません。」という意味だそうです。

千里の馬が有能な人材を指していて、伯楽が人材を上手く活用する立派な指導者を指しているようです。

 

「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」の読み方

 

故事成語「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」は「せんりのうまはつねにあれども『はくらく』はつねにはあらず」となります。長いですね・・・。

 

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「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」の使い方

 

「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」の使い方と言ってもあまり会話でこんな長いフレーズを口にすることなど考えられませんが一応考えてみました。

 

A「C課長が辞表を提出したそうですね。近々退職するそうですよ。」

B「耳が早いね。俺もさっき知ったところなんだよ。びっくりしたな。」

A「もったいないですよね。C課長が辞めるなんて。同期でも出世している方ですし提案する企画やコスト削減案もいいものが多かったと思うんですが。」

B「的を得た意見を遠慮せず出していたかもしれないけど、経営陣にはあまりいい顔されていなかったからな。基本的にうちの会社の上層部はイエスマンが多いから。そういう体質に嫌気がさしたのかなぁ。そんなこと気にする人には見えなかったけど。」

A「度量の広い上司がいなかったってことですかね。」

B「そういうことなのかも。千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らずってやつかな。」

A「・・・何ですかそれ。」

 

お粗末でした。若手のビジネスマンが会話の中で千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず、などと言うわけがないとも思いましたが、意味的にはこのような感じではないでしょうか。

 

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「千里の馬は常に有れども伯楽は常には有らず」の出典

 

世の中に馬の能力を判断する名人がいるからこそ、千里も走るような良い馬のいることがわかるのです。実は千里も走るような名馬はいつの時代も生まれているのですが、馬の能力を見極める名人はいつもいるわけではないのです。

ですから例えいい馬がいるとしても、ただ下っ端の使用人にこき使われ馬の飼い葉おけの間で首を並べて死んでしまいます。千里を走る良い馬と称賛されることなど、とてもではありませんが無いのです。

 

以上の内容は、韓愈(かんゆ)という人物が書いた「雑説(ざつせつ)」という古典の中にある内容です。文語で訳してある内容を私なりに現在の言葉で表現してみました。間違いがありましたら申し訳ありません。

 

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実際に優秀な指導者がいつの世も少ないものなのかどうかはわかりませんし優秀な才能を持った人材はいつの世もたくさんいるものなのかも私にはよくわかりません。

ただ学校に通っていた頃のことを考えると担当する教師によって教わっている教科が好きにも嫌いにもなるという事は大いにあったような気はします。指導する立場の責任は大きいですよね。

この故事成語については「指導する立場になったら教える相手の良いところ、才能をきちんと見つけ、十分に理解して、それを出来るだけ伸ばしてあげるようにしなさい。」というのが知恵と言うか、教訓になるのかなぁと思いました。難しいことではあるのかもしれませんが。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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