合従策と連衡策という戦略にはどの様な違いがあるのでしょう

合従策と連衡策の違い

中国大陸に関する古代の歴史について、あるいは国家間の関係、生き残りのために過去の時代にとられた戦略について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では中国大陸において周という王朝が影響力を失ってから長い年月が経過した「戦国時代せんごくじだい」と呼ばれる時期に、台頭していた国々が自国の生き残りのために選んだ合従策(がっしょうさく)や連衡策(れんこうさく)という戦略がどういったものでどのような違いがあるのかについて私なりに書いてみたいと思います。戦国時代には戦国七雄(せんごくしちゆう)などと言って七つの国が覇権を争ったそうです。それまでの時代にはもっと多くの国々が割拠していましたが軍事強国に吸収され七つの国々に落ち着いていきます。以前中国大陸の広大な地域を支配していた周王朝はこの七つの国に含まれていません。競合相手として生き残った七つの国々ですが、状況としては一国が他国に比べかなり強大で、残りの六カ国はそれに比べれば弱く、脅威にさらされていたと言われています。そのような中とられた外交的な策が合従策や連衡策でした。どちらの策も、ある国が他国と同盟を結ぶという点では同じですが同盟を結ぶ相手に違いがあります。合従策というのは飛びぬけて強い、一強の国に対抗するために他の弱い国同士が同盟を結ぼうというものであり、もう一方の連衡策は弱い国が一強の立場にある国と同盟を結んで生き残りを図る、滅ぼされないようにするというものです。同盟を結ぶ相手や同盟を締結する国の数といった点で合従策と連衡策には違いが出てきます。以下の項目では合従策と連衡策について中国大陸で繰り広げられた歴史的事実を提示しながら説明してみたいと思います。

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合従策

戦国時代と呼ばれた時代の中国大陸には前の項目で触れた通り有力な国が七カ国存在し勢力争いをしていました(他の小国が存在していなかったわけではないのですが、そういった小国は有力七カ国をしのぐような勢力にはなり得なかったようです)。その七カ国の中で最も強大であった国は大陸の西に存在していた秦(しん)です。他の六カ国は秦に侵略され滅ぼされてしまう脅威にさらされていました。他の六カ国は魏(ぎ)、趙(ちょう)、燕(えん)、韓(かん)、楚(そ)、斉(せい)、という名前の国々です。大陸の東側にこれら諸国は存在していました。戦国時代には外交をどのように行うかを論じて、策を国の指導者に提案する弁舌巧みな人々がいて、そういった人のことを縦横家(しょうおうか)と呼んでいました。この縦横家の一人である蘇秦(そしん)という人が秦の脅威にさらされている国の一つ、燕を訪れ、その国の王様と面会することに成功します。そして王様に魏、趙、韓、斉、楚の五カ国と同盟を結び六カ国が一致協力して秦と対峙するという戦略を提案しました。燕の王様はこの策に関心を示し、蘇秦さんを他国に派遣、他の国の指導者にもその案を説明して同盟を結ぶよう説得する役目を与えました。他の国も秦を大変恐れていたということなのでしょう、この六カ国の同盟という策を支持し同盟は成立。秦はこの六カ国に対し思うように攻略することが出来ない状況となりました。この一強である大国、秦の脅威に対抗するため、秦に比べれば弱い他の国、六カ国が集団の同盟を結ぶという自国を守るための外交の方策、これが合従策というものです。合従策を取り入れた六カ国は蘇秦さんを大変評価し、それらの国々の宰相(さいしょう この場合王様を補佐して国の政治をする立場の人のこと)に任命しました。かつてはうだつが上がらず家族からも侮られていた蘇秦さんでしたが、このようにとてつもない出世を成し遂げることとなります。

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連衡策

合従策を採用して戦国七雄のうちの六カ国が同盟を結び大国の秦に対抗したため、秦は他の国々を攻略しにくくなってしまいました。かつて蘇秦さんが六カ国のうちの一国、趙の王様との会見が叶った際に、六カ国が連合したのならその軍事力は秦のそれの10倍に及ぶなどと説得したそうですので、下手に秦が攻め入った場合10倍の軍勢と戦わなければならない羽目になってしまうかもしれません。思うように動けないのも当然でしょう。そんな覇権争いに進展がない状況が続く中、秦の王様に一つの戦略を提案する人物が現れます。張儀(ちょうぎ)という人物で、この人も蘇秦さんと同様縦横家の一人でした。彼は秦の王様に秦が対峙する残りの六カ国と個別に同盟を結ぶよう進言します。秦はこの策を採用する決断を下しました。集団で同盟を組んでいた六カ国の連携を壊すべく張儀さんは諸国を訪問し秦と同盟を結ぶことによる生き残りを図るよう説得し六カ国間の同盟を捨て秦との同盟を選ぶ国が一つまた一つと出てくる結果となり、それを理由に合従策は崩壊してしまいました。実際のところ六カ国の関係は決して盤石なものではなく、隣国同士で対立する問題も抱えていて、隣国が攻めてくるのではないかという疑いが全くなかったわけではありませんでした。そのような各国の王様たちの諸国への疑心暗鬼、自国の生き残りにかける強い思いを張儀さんは利用したようです。このような一強状態の大国が他の弱小諸国と個別に同盟を結び互いの安全を守ろうとする策が連衡策であり、弱小諸国間の同盟関係はこの場合消失することとなります。連衡策が成立した後、秦が諸国との約束を守ったかどうかということは歴史が証明する通りです。秦が結局これらの国々を飲み込んでしまって統一を果たすわけですから最終的には秦との同盟という約束は守られなかったということになります。

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今回は戦国時代の一時期、中国大陸の諸国の動向に影響を与えた戦略である合従策と連衡策について取り上げました。先日の記事で秦が大陸の広範囲の地域を統一することに成功したことや強国となった理由について触れた記事を作ってみたのですが、秦が統一に成功するまでの一時代である戦国時代について高校で学ぶ世界史の中でそれほど詳細に解説されているわけではないものの大抵触れられている用語、合従策、連衡策について記事を書いてみたくなり今回のようなテーマの記事にしてみました。合従策、連衡策が縦横家によって実現したのはとんでもなく昔の出来事ではありますが、主導権を争う諸国がどういった動きをするのかということについては昔の話と軽んじ聞き流すことが出来るものでもないような、現代の国際社会でも似たような動きをもしかしたらしたりするものなのかな、などといった漠然とした応用の可能性を感じたりもします。隣国同士が互いに警戒しあっていたりするようなところは具体例を挙げるのは避けておきますが今の世の中でも当てはまるように思いました。受験の時にこういった合従策、連衡策といった用語を私自身憶えたのかもしれませんがこれらの外交戦略について今の世の中の諸国の関係に当てはめてあれこれ考える余裕など全然無かったような気もします。現在我が国は米国と同盟関係にありますが、日本を敵視し、日本を滅ぼして占領してしまいたいといった野望を持った国から見れば日本を攻略する場合、やはり日本と同盟を結ぶアメリカの存在は目障りなはずです。日米の相互間における不満を理由に日米双方が同盟関係を破綻させるような動きを取るように陰に陽に敵側が画策するようなことは何か秦や張儀さんが六カ国の合従策を解消させ連衡策に傾けさせた戦略にも通ずるような気もします。今の世の中に無理やり大昔の話をつなげているように受け止められる方もおられるかもしれませんが、日本国内における反米感情の扇動には一日本国民として十分注意したほうがいいように感じた次第です。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事でも写真ACで提供されている写真を使用させていただいております。

日英同盟の終了について触れている話「四カ国条約とは?この条約の内容や日英同盟との関わりについても」はこちらです。

結果的には誤った選択となった枠組みについて触れている話「日独伊三国同盟とは?締結の理由やアメリカの反応についても」はこちらです。

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