第一次松方正義内閣の衆議院での対応と選挙干渉について

第一次松方正義内閣

 

第一次松方正義内閣(だいいちじまつかたまさよしないかく)は西暦1891年(明治24年)5月に発足しました。その前の内閣は山県有朋さんが首相を務めた内閣でした。山県さんが第1議会終了後辞表を提出することでこの内閣は退陣しています。松方さんは山県内閣で大臣を務めていた人が首相を除き全員留任することを条件に総理大臣を引き受けました。第3議会の途中でこの内閣は総辞職することとなります。西暦1892年(明治25年)8月のことです。

 

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第一次松方内閣の衆議院での対応

 

重要な点は第2議会の途中で衆議院を解散する結果になったということでしょう。政府予算の議論の過程でなるべく政府が使うお金を少なくしようという考えの自由党や立憲改進党ら民党(みんとう)は政府の出してきた予算案に反対しました。海軍などにあてるお金が多すぎるというのが反対理由だったそうです。予算案は前年と比べ国の予算全体の額が650万円ほど増える内容となっていました。

第1議会と同様第2議会でも民党が多数派であり、彼らが予算案に賛成しなければ政府は来年の予算を組むことが出来なくなってしまいます。民党に妥協する他なかったようで政府はやむを得ず予算全体の額をもとの予算案から800万円ほど減らした内容に変更し、民党側もその変更した内容の予算案に賛成しました。こうして政府は予算案を衆議院通過させることが出来ました。

しかしこれでめでたし、めでたし、とはなりませんでした。削られた約800万円の予算の中に海軍の軍艦建造費用も含まれていたのです。予算案変更という結果に海軍省は非常に不満を持ちました。松方内閣で海軍大臣を担当していたのは樺山資紀(かばやますけのり)という人です。樺山さんは薩摩藩出身です。陸軍の軍人としても海軍省の高官としても経歴を積み重ねていた人でした。その樺山さんが海軍大臣として衆議院で「この国が他国から侵略されずに平和を保っているのは、多数の国民の安全を保っているのは何による貢献によってなのか」という主旨の発言を演説の中で行い、それが民党側の強い反発を招いてしまいました。強い反発の結果、国会での審議が全く進まなくなってしまいます。そのような状態であったため松方首相は予算案が通過した後に衆議院を解散しました。

 

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選挙干渉

 

第2回衆議院議員総選挙は1892年(明治25年)2月に行われました。この選挙も小選挙区制の選挙です。選挙区から一人だけ当選者が出る仕組みです。この総選挙で松方首相や当時の内務大臣、品川弥二郎(しながわやじろう)らが地方のトップである府や県の知事に政府を擁護する立場の立候補者を支援するように指示を出したそうです。民党側の勢力を弱めようとしたわけです。

政府側の指示が具体的にどのようなものだったかはよくわからないようですが結果的には悪質な選挙干渉が国内各地で行われました。民党側の候補者の選挙運動をあからさまに妨害する行為が官憲によって行われていたそうです。平和裏に行われるべき選挙であるにもかかわらず、警察隊と民党側の衝突で20名もの方々が全国でお亡くなりになっています。特に民党勢力の強い地域であった高知県では亡くなられた方が多かったそうです。

選挙結果は民党側が衆議院議員定数300人のうち自由党が94議席、立憲改進党が38議席となって過半数を割り込みました(132議席)。しかし政府擁護と見られた勢力も一枚岩ではなく、離反した人たちが民党側につき、選挙後も民党勢力は発言力を確保することとなりました。選挙干渉に関わった大臣や高官は辞任したり更迭されています。薩摩藩関係者が更迭された事例が多かったことに反発した薩摩藩出身の陸軍大臣と海軍大臣が辞表を提出することとなり、内閣をまとめられなかった松方さんは内閣総辞職をします。このような経過で第一次松方内閣は退陣しました。

 

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今回は松方内閣を取りあげてみました。民党の反発を招いた海軍大臣の演説や解散後に行われた選挙干渉などこの内閣についてはいくつかの重要な出来事が含まれているように思いました。海軍大臣が「誰のおかげで日本が侵略されずに国民の安全を保てているのか」と訴える内容を初めてみた時は、それ程まずいことを言っているのかよくわかりませんでした。議員同士の議論であればそんなに問題にはならなかったんでしょうかね。国民から選ばれた議員たちが出した結論に政府側が文句をつけたということが重大だったということなんですかね。

選挙干渉が横行したことについては歴史の教訓としてよく理解しておいた方がいいように感じました。このようなことがまかり通るようになったら選挙など有名無実となるでしょう。当時の政権担当者たちは国民の意思をどう見ていたのでしょうか。国会の存在意義についての考え方はどのようなものだったのでしょうか。ないがしろにしていたのだろうと思わざるを得ません。これは議会設立を希望された明治天皇のこころざしを汚す行為のようにも感じます。

このような行為は過去の遺物だと言えるほど世界が進歩しているといいのですが、どこそこの国で選挙や国民投票が実施され、負けた陣営がこの選挙で不正が行われたと主張するような話ってそんなに珍しくはありませんよね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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