第2次大隈内閣で与党だった立憲同志会とは?初代党首についても
立憲同志会とは
立憲同志会(りっけんどうしかい)とは西暦1913年(大正2年)に作られた政党の名前です。この政党を最初に作ろうとしたのは桂太郎という人でした。桂さんという人は3回内閣を組織し総理大臣として政治を行ってきた元長州藩出身の薩長閥勢力の一人でした。また陸軍の軍人としての経歴も持ち当時の政治の世界で発言力を持っていた「元老げんろう」の一人だったという指摘もあるような人です。
この桂さんが総理大臣として活動してきた中で衆議院の大きな勢力であった政党、立憲政友会は桂首相と対立した存在だったのだそうです。また桂さんが3度目の内閣を組織した時期は第一次護憲運動(ごけんうんどう)が大変盛り上がり政府に対する反発は大変強くなっていました。このような状況のため、桂さんは自分のような政治的立場を理解してくれる政党が是非衆議院で議席を占めて内閣を支持してくれるような体制を整えたいと考え新しい政党を作ろうとしました。
3度目の桂さんの内閣の時に立憲同志会の名称で政党を作ろうと行動に移したものの、当時の桂さんに対しては世の中の風当たりも強かったようで、参加したいという議員さんもそれ程集まらなかったようです。結局は政党の発足に至らず、政党が出来る前に桂さんは3度目の内閣総理大臣を辞職し第3次桂内閣は退陣しました。その後桂さんは病気でお亡くなりになり、別の方々が桂さんの考えを受け継いで1913年12月に政党を結成することとなりました。
桂太郎内閣が退陣した後に誕生した山本権兵衛内閣の時は政友会という政党が内閣を支持する与党の立場をとっていましたが、政友会をライバル視していたからということでしょうか、立憲同志会はこの時期は野党の立場をとっています。
ジーメンス事件に代表される海軍の汚職が明るみになり山本権兵衛内閣が退陣した後に誕生した第2次大隈重信内閣の時には立憲同志会は内閣を支える与党の立場をとりました。この時政友会は野党となっています。
この立憲同志会という政党は後に大変大きな新しい政党、憲政会(けんせいかい)が1916年に誕生する時に他の政党と一緒に憲政会に合流するという形で解散しています。
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立憲同志会の初代党首は
桂太郎さんの行動によって後に誕生した政党なわけですが、桂さんが御存命だった時に誕生したわけではありませんでしたので、桂さん自身は党首という立場にはなっていなかったようです。
1913年12月に立憲同志会が誕生した時に参加者から初代の代表に選ばれた人物は加藤高明(かとうたかあき)という人でした。大学を卒業後、三菱に入社しますがその後政治に関心を持つようになったそうで外務省の官僚となります。その後イギリスに駐在する公使や外務大臣といった要職を務めるという経験を積まれました。政府の一員として活動してきた期間が長い人のようですが桂さんの呼びかけに参加し立憲同志会結成に参加したようです。1913年からだいぶ先にはなるのですが、後に総理大臣も務めることとなる方です。
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第2次大隈内閣発足について
第2次大隈内閣誕生から退陣についてまでこの場でまとめるわけではありませんが、第2次大隈重信内閣が誕生したいきさつについて触れておきたいと思います。
第1次山本権兵衛内閣が海軍の汚職事件(ジーメンス事件)で国会や世の中から強く批判される中で退陣したのは1914年(大正3年)でした。次の総理大臣を誰にやってもらうかということで政治的に発言力の強い元老という人たちが会議をして政界で有名な人たちの名前を出したのだそうです。徳川将軍家の家柄である徳川家達(とくがわいえさと)さんという当時の議院の一つ貴族院の議長をされていたかたや、貴族院の有力者であり天皇の諮問機関(諮問機関というのは求めに応じて意見を申し上げる機関という意味になります)である枢密院(すうみついん)の構成員でもあった清浦奎吾(きようらけいご)さんといった方たちでした。しかしこの徳川さんからは内閣を組織し総理大臣となることを断られます。徳川さんの関係者が江戸幕府を倒した新政府に対しあまり良い印象を持っていなかったことが関係しているとの指摘もあるようです。清浦さんは内閣を組織しようとするものの、海軍大臣を決められそうもなくなって内閣を引き受けることを断念する結果となりました。元老の人たちが次に名前を出したのが大隈重信さんでした。大隈さんを起用しようとしたのは大隈重信さんが薩長閥のような当時世の中から批判されることの多かった藩閥政治とは距離を置いた人物であり、元老の人たちと対立することの多かった立憲政友会と大隈さんが良い関係ではなかったといった理由からのようです。
大隈さんはこの元老の人たちからの働きかけを受け入れ、第2次大隈内閣を組織することになります。大隈さんとの関係の近い人物が立憲同志会内にいたのだそうで、そういった人たちに大臣をやってもらう中で同志会などの政党が大隈内閣を支える与党の立場となりました。
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今回は立憲同志会という政党について一部取りあげてみました。第2次大隈内閣が出来上がる過程を記事にしたかったのですが、話の中心になるものが無いかなと探していたところ、立憲同志会という政党がこの内閣を支える政党(与党)だったらしいということでこの政党を調べてみることとしました。桂太郎という藩閥勢力の一員である政界の有力者の発案で作られることとなった政党だったんですね。たしか立憲政友会という政党は政界の有力者、長州閥としても有名な伊藤博文さんの意向で誕生した政党だったように思います。政友会も同志会が合流する憲政会という政党も非常に大きな政党です。結局大きくなる政党というのは藩閥勢力の有力者の行動によって出来上がった政党ということになりますね。一般国民レベルの人たちが作った政党が勢力を拡大して大政党となるといった経過をたどるようなケースはこの大正初期の時代には無かったということのようなので何か物悲しい感じがします。犬養毅(いぬかいつよし)さんらが所属する立憲国民党という政党はあったものの衆議院内でそれほど大きな勢力ではなかったようです。立憲国民党は一般民衆の立場に立つ政党という意味での民党(みんとう)として活動を続けていました。
第2次大隈内閣誕生のいきさつについても国民から人気のある大隈重信さんを担ぎ出して藩閥勢力に対する風当たりを弱めながら元老の人たちと仲の悪い政党、立憲政友会に対抗するという意図があることを知り、大隈さんは元老の人たちに結局は利用されるということで総理になったのかと感じました。国民に人気のある人が政治のトップに立つ背景には実際の実力者の全く国民とは離反した思惑が場合によってはあるものなのかもしれません。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
政権政党関連記事「第3次伊藤内閣時代に結成された憲政党とは?党首についても」はこちらです。
政権政党関連記事「第4次伊藤博文内閣で与党となった立憲政友会とは?」はこちらです。
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