松岡洋右更迭が目的だった第2次近衛文麿内閣の総辞職とは?

第2次近衛内閣総辞職とは

第2次近衛内閣総辞職(だいにじこのえないかくそうじしょく)とは西暦1941年(昭和16年)7月に起きた出来事です。1940年の7月から米内光政内閣の次の政権として発足した近衛文麿さんを首相とする第2次近衛内閣ですが約一年で一旦退陣することとなります。ここで「一旦」と言っているのは、すぐ発足する次の政権がまた同じ近衛文麿さんを首相とする内閣だからです。次の政権は第3次近衛内閣になります。また同じ人が首相を担当する内閣になるのなら、なぜわざわざ第2次近衛内閣は総辞職する必要があるのでしょう。普通に考えればそんな面倒なことなんてしないはずです。よく指摘されていることですが、それは第二次近衛内閣で外務大臣を担当していた松岡洋右さんを辞めさせたかったからだと言われています。

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大日本帝国憲法のもとで当時の日本国は政治がおこなわれていましたけれど、当時の仕組みでは総理大臣の権限が現在よりも弱く、総理大臣が他の国務大臣に辞任するよう要請しても、その大臣が辞任を拒否した場合は、その大臣を辞めさせ新たな大臣に交代させることが同じ内閣の状態では出来なかったのだそうです。でも内閣を構成している全ての大臣が辞職をするということは否応なく出来たようなので、一旦すべての大臣が辞職し、新たな内閣を作るよう昭和天皇に命令を出してもらい大抵の大臣はそのまま同じ人にやってもらって外務大臣は松岡さんではない別の人に担当してもらうという手順を踏み松岡外相を辞めさせたというわけです。一人の大臣を否応なく辞めさせるためにはこうしなければなりませんでした。

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松岡洋右さんを更迭した理由

更迭(こうてつ)というのは高い地位の職務に就いている人を辞めさせて別の人に担当させる行為を意味します。松岡さんを第二次近衛内閣の外務大臣にしたのは近衛文麿さんなのになぜその近衛さんが松岡さんを辞めさせたいと考えるようになったのでしょう。日米交渉が1941年の4月頃から本格的に始まっていたのですが松岡さんはこの交渉に関し否定的と言いますか、積極的に成立させようという姿勢をあまり示さなかったようです。日米交渉の下地となり得る日米了解案(にちべいりょうかいあん)という両国の意向を織り交ぜた内容を両国政府の考えに詳しく高官ともつながりのある日米両国の人々が懸命に作成させたことがありました。これを土台に日米交渉をおこなうことに第二次近衛内閣の大抵の大臣は賛成しましたが、松岡外相だけは反対し日本政府案として日米了解案の元の内容を大幅に変更したものをこれが日本政府の考えだとしてアメリカに返答する結果となりました。元の日米了解案に日本が賛成なら日米交渉が進んで日米間の戦争を回避できたという保証などありませんし一時的なものにすぎなかったかもしれませんが、松岡外相の動きによって良い方向へ日米間の交渉が進みづらくなったとは言えそうです。また別の件でも松岡さんは近衛さんたちと意見が大きく異なりました。当時ドイツはソビエト連邦と戦争を始めていました(独ソ戦争と呼ばれます。戦争開始は1941年6月です)。国際情勢を変化させる大きな出来事が生じ日本はどのように行動するべきか政府内で議論となりました。当時の第二次近衛内閣は日本国が必要としているけれどもアメリカからの輸出禁止政策によって欠乏しているような物資を南方(東南アジアなど)で確保しよう。その為に必要であれば東南アジアを植民地にしている欧米各国との戦争も覚悟しようと考える意見が大勢だったようです。それに対し松岡外相は南進政策に反対しました。南方に進出するのではなくドイツと戦っているソビエトを攻撃し、日本とドイツでソビエトを挟み撃ちにして日本や満州国に対するソビエトの脅威を取り除くべきだと主張しました。この松岡さんの意見が当時の首相近衛さんにとっては、とても受け入れられない内容だったということでわざわざ内閣総辞職して松岡外相を辞めさせた、そんな指摘もあるようです。

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今回は松岡洋右外務大臣の更迭を理由とする第2次近衛内閣の総辞職について取りあげてみました。たった一人の大臣を辞めさせるために内閣が総辞職するというのは私からすると非常に不自然に映る出来事ですが、そこまで外務大臣を辞めさせたかった理由が何なのか改めて確認したく記事にしてみました。この件に関しては松岡さんが日米交渉に強硬な姿勢で臨もうとしたから交渉進展の障害になるのでやめさせたという見方が強いようです。でもどうなのでしょう。それであれば松岡さんを辞めさせるために総辞職する時期が遅くないでしょうか。日米了解案を巡って松岡外相と近衛首相をはじめとする他の大臣が意見対立するのは1941年の4月の話です。今回の第二次近衛内閣総辞職はその3か月先の話です。日米交渉を理由に松岡さんを辞めさせたいなら4月や5月に総辞職するのが自然な感じもするのですが。この件を調べていて松岡さんが南方進出に反対しソビエト連邦との戦争をするべきだと主張していたことは今回初めて知りました。近衛内閣が南方に進出せずソ連との戦争をすることになったら一体どうなったのか、アメリカがどう動いたのか私にはよくわかりません。でも南方進出でアメリカが更に対日経済制裁を強めました。そうならない余地がソビエト連邦を日本が攻撃した場合あったのかどうか。物資も不足している中新たにソ連と戦争するというのは無謀ですし、南方に進出して欧米と戦争になるというのも無謀に感じます。大体お互い侵攻しないという日ソ中立条約を結んだばかりなのです。それなのに条約を破棄してソ連を攻めようと外務大臣が主張するというのは驚きです。約束を結んですぐ破るという行為が一般的に見て支持されるような態度ではないことは言うまでもありません。国が切羽詰まると条約というのはその程度のものとしてしか扱われかねないということなんでしょうかね。北進も南進もせず、とすることが出来ればいいのになどと素人の私などはおもってしまいますが、資源が欠乏している状態ではそういうわけにもいかなかった、というところでしょうか。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

日米交渉について触れている話「野村大使とハル長官による1941年4月の日米交渉について」はこちらです。

北進と関わっていると思われる出来事に触れている話「ソ連軍を想定して関東軍が満州でおこなった関特演とは」はこちらです。

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