頼朝さんが流罪となってしまったのはなぜなのでしょう

なぜ源頼朝さんは流罪に

平安時代の歴史に関心を持たれてこのページに来られた皆さんこんにちは!この記事では私なりに源頼朝さんが流罪となってしまった理由について書いてみたいと思います。平清盛さんをリーダーとする武士団、平家が政治を動かしていた時期が平安時代にはありましたが、征夷大将軍に就任し京都とは全く別の場所、東国の鎌倉の地を政権の拠点とした人物として源頼朝さんは大変有名です。その頼朝さんですが挙兵して平家の勢力と争うまでは伊豆の地でひっそりと過ごすことを余儀なくされていました。頼朝さんは流罪となっていたからです。頼朝さんが伊豆に流されたのは永暦(えいりゃく)元年、西暦1160年のことでした。13歳の頃です。平家打倒のために挙兵をしたのは治承(じしょう)四年、西暦1180年だったそうですから20年間伊豆で流刑に服していたことになります。13歳と言えば今の世の中ですと中学一年生くらい。子供の頼朝さんがなぜ流罪などという目に遭ってしまったのでしょう。彼が伊豆に流されてしまったのは彼の父親、源義朝(みなもとのよしとも)さんが平治の乱(へいじのらん)という争いで敗れてしまったからです。源義朝さんが敗れたことで平治の乱に勝利した武士団、平氏勢力は義朝さんの一族の武士の方々に対して刑を科しました。頼朝さんのように流罪になった方もおられますし、頼朝さんの兄にあたるかたで処刑されてしまった方もいます。

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平治の乱で

平治(へいじ)元年、西暦1159年に源義朝さんは後白河上皇の側近の人物と連携し、当時の政治の世界で強い影響力を持っていた藤原通憲(ふじわらのみちのり)という人物を倒すために挙兵しました。1159年の3年前に後白河上皇がまだ天皇だった頃、崇徳(すとく)上皇というかたの陣営と争った保元の乱(ほうげんのらん)という戦いがありましたが、その時に源義朝さんは後白河天皇側について戦いました。勝利に貢献した立場でしたが同じ後白河天皇側として戦った武士団、平家に比べてその後の源氏に対する待遇があまり良くなかったことに不満を持っていたそうです。源義朝さんらの挙兵によって保元の乱以降大きな影響力を持った藤原通憲さんを自害に追い込んだのでそれなりに義朝さんたちの目的は果たしたことになるのですが、その後通憲さんに重用されていた武士、平清盛さんがたくさんの軍勢を伴って義朝さんの勢力と戦い、結果的に味方からの裏切りなどもあって義朝さんは劣勢に立たされてしまいました。義朝さんの一族との結びつきの強い武士が多い東国にひとまず退却しようと京から東国に撤退する途中に義朝さんは味方の裏切りに遭い命を落とすことになります。東国に逃げる途中に頼朝さんは義朝さんとはぐれてしまい平家側に捕まってしまいました。

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平家に捕まって

平家側に捕まってしまった頼朝さんは平治の乱の当事者、源義朝の息子であるため、頼朝さんのお兄さんと同様、処刑されてしまう危険性が高かったようです。しかし平治物語によると平家武士団のリーダーである平清盛さんの継母である女性が頼朝さんを処刑するのはやめてほしいと強く要望したことで難を逃れ伊豆の地に流される程度の処分で済むこととなりました。この継母である池禅尼(いけのぜんに)さんが敵側のリーダーの息子を助命するように望んだ理由は自分の死んだ息子と頼朝さんが似ていたからというものでした。伊豆への流刑は厳しい処分ではあったのでしょうが元々は死刑に処せられてしまいそうだったのを敵側の重要人物のお情けで減刑してもらった結果の処分だったので不幸中の幸いだったとも言えます。

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今回は保元の乱の後の平治の乱によって頼朝さんが流刑になった件について取り上げました。平治の乱に関係した話を記事にしてみたく頼朝さんが流刑となった理由について関心を持たれている方もおられるようでしたのでこのようなテーマにしてみた次第です。戦いに敗れた側のリーダーの子息は一族であることを理由に罰を受けなければならないということで本当に過酷な話です。勝者側としては敵の子孫に命を狙われないようにするための対策という意味もあるのでしょうから仕方のないこと、という考えも出来るのでしょうけれど・・・。皇族からの働きかけがあったからではありますが伊豆に流されてから二十年後、実際に頼朝さんは挙兵して自分の命を奪わなかった清盛さんの一族を倒してしまいます。ただ池禅尼さんの息子さんである平頼盛という人については、池禅尼さんのおかげで頼朝さんが命を救われたこともあって、頼朝さんは恩を感じ一度取り上げた領地を返却するなどといった配慮もしたそうです。こういったところは多少救いのある出来事なのかなという気もしました。義朝さんが平治の乱で敗れたことによって源氏勢力は凋落し武士団の中では平家勢力が圧倒的な存在感を持つこととなり、中央政界で重用されることとなります。平治の乱の後は平家が台頭する世の中となっていきました。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

源頼朝さんの政策について触れている話「鎌倉が幕府を開く場所とされた理由は何なのでしょう」はこちらです。

源氏内の対立について触れている話「源義経さんと源頼朝さんの関係はどの様に経過したのでしょう」はこちらです。

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