江戸城無血開城とは?無血開城した理由も

江戸城無血開城とは

 

江戸城の無血開城とは旧幕府側が武力抵抗すること無く朝廷が派遣した東征(とうせい)軍という朝廷側の軍隊に旧幕府側の根拠地であった江戸城を明け渡したことを意味します。

西暦1868年の1月に京都で旧幕府側と朝廷側の軍が武力衝突した鳥羽・伏見の戦いによって幕府側は朝廷の敵、朝敵と見なされる結果となりました。そのため朝廷は旧幕府側を討伐するための軍、東征軍を編成します。軍のトップには皇族のかたが就任しました。

東征軍が江戸をめがけて進軍します。現在の山梨県や栃木県で東征軍は旧幕府側の勢力と戦い、鳥羽、伏見に続いてこの戦いでも勝利する結果となりました。関東に迫った東征軍は江戸城を攻撃する日を3月15日と定めました。

 

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無血開城した理由

 

旧幕府側は抵抗することなく江戸城を結果的に朝廷側に明け渡しています。旧幕府側がそのような選択をした理由は何なのか。指摘されている意見がいくつかあるようです。

江戸城での大規模な戦闘によって被害は旧幕府側には当然出るものの、朝廷側の被害も相当大きくなることは十分考えられました。それによって双方の軍事力が疲弊して国全体の力が低下してしまうことを恐れた。というのが一つ。

また江戸を戦場にして戦争が発生すると当時江戸で生活していたたくさんの一般の人たちに犠牲が出てしまうというのが一つ。

また武力衝突に至れば旧幕府側のトップが処刑されてしまう危険性もあり、かつて将軍だった徳川慶喜(よしのぶ)公をを危険にさらしてしまうというのが一つ。

先ほどの理由と関係してきますが、旧幕府側と朝廷側の軍の損害が著しく大きなものとなった場合、他国に付け入る隙を与えてしまい、結果的に例え日本の一部だけだとしても植民地にされてしまいかねなかった。というのが一つ。

以上の4つの意見がよく指摘されています。他には当時の旧幕府側のトップ、慶喜公が天皇を相手に武力行使したくはないという考えを持っていたようで、江戸城を出て上野にあるお寺に移り謹慎する姿勢を見せていました。これは2月にとった出来事であり、江戸城攻撃予定の前の月です。旧幕府側のトップが朝廷を相手にして戦いたくはなかったというのも江戸城無血開城に影響を与えたのではないでしょうか。

また外国側が江戸城攻撃によって日本との貿易に支障がで出てしまうという理由や旧幕府側が朝廷側に従う姿勢を示している中で旧幕府側を攻撃するのは諸外国のしきたりや考えから言って受けいれられるものではないという理由で東征軍の江戸城攻撃に不満を示したという話もあるようです。大きな力を持つ他国の意見に東征軍側も耳を貸さざるを得なかったという説のようですが、真偽はよくわかりません。

 

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開城はどのように実行されたのでしょうか

 

旧幕府側から勝海舟さん、東征軍側からは西郷隆盛さんが参加して協議の場が持たれ、江戸城の無血開城が実現しています。無血開城にあたっては、旧幕府側のトップ徳川慶喜公は水戸藩で謹慎することとなり、旧幕府側の武器、軍艦は朝廷の所有として、江戸城にいた家臣は謹慎となりました。そのような取り決めで双方とも了承し開城へ話が進んでいきました。

江戸城は4月に開城され、徳川御三家の一つ尾張(おわり)藩が城を一時的に管理することとなりました。そして同じ月に東征軍のトップである皇族のかたが江戸城に入ることとなります。大規模な戦闘が発生することなく旧幕府側の江戸城は朝廷のものとなりました。

 

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今回は江戸の開城について取りあげてみました。江戸無血開城という事実は歴史の授業でもやったように思いますが、なぜ武力衝突なく朝廷に城を明け渡すことを許したのかについては授業で詳しくやることもなかったような気がするので今までよくわかりませんでした。犠牲を少なくするとか外国に介入する口実を与えない為とかいろいろ理由があったのですね。理由がどうであれ大規模な衝突となるのを食い止めて決着をつけたというのは非常に賢明だったのではないでしょうか。

江戸を攻める以前から旧幕府のトップが城を出て江戸のお寺で謹慎しているという状況なら旧幕府の家臣の人たちもそれ程士気は上がりませんよね。慶喜公は他にも旧幕府側のあくまで東征軍と戦うべきだという主張を取り下げなかった重臣を罷免するような人事の変更もしたのだそうです。

慶喜公はもともと大阪から京へ進軍した時も江戸で浪士たちを利用して様々な犯罪を繰り返していた薩摩藩を討つことが目的で朝廷を倒すことが目的ではなかったのですから、朝廷から敵扱いされるのは非常に心外だったということなのかもしれません。

とうとう江戸城も朝廷の手の中に入りました。しかしまだ日本全国の勢力全てが朝廷側の勢力に従ったわけではありませんでした。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と写真に関係はございません。ご了承ください。

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