国が成田空港の建設を決めた理由は何だったのでしょう

成田空港の建設を決めた理由

 

千葉県の成田市にある、以前は「新東京国際空港」と呼ばれていた空港が営業を始めたのは西暦1978年(昭和53年)の5月20日です。現在は運営を民間会社がおこなっているそうですが、営業を始めた当初から2004年までは公団、政府の関係機関が運営していました。この空港に関しては建設をおこなう前から地元の人たちによる激しい反対運動がおこなわれたことで有名ですが、政府はそのような中、空港建設を断行しています。成田市に新しい空港を建設することを決めた理由というのは何だったのでしょう。理由として将来の航空機利用に関する需要が非常に増加すると見込まれたことや東京にある通称「羽田空港」、正式名「東京国際空港」の機能に限界が来ていると見られていたこと、新しい空港建設地として他に適切な場所が無かったことなどが挙げられるかと思います。

 

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将来の需要の増大

 

連合国側の日本占領が1952年に終わり、日本が独立を回復した後、民間の航空機利用が本格的におこなわれることとなりました。海外の航空会社の航空機の乗り入れが増加していきました。とはいっても1950年代は海外に渡航する日本人も少なく、首都圏の空港設備として羽田空港は十分機能していたようです。しかし状況が変わってきます。使用される航空機が大きくなっていき、一つの航空機の便で移動する人の数が増加していくことになりました。また将来にわたってそのような傾向が続くことが考えられました。また国内においても地方に空港設備が整えられるようになり地方から東京に乗り入れる便数も増加していくことになると考えられました。新しい空港が必要と考えられていた時代は高度経済成長の時期よりも前の時代でしたが、日本の経済の発展に伴い羽田空港を利用する旅客数も貨物の量も増加することが予想されました。実際に羽田空港の利用旅客数は1960年代半ばから急激に増加することになります。1960年代前半まで数百万人レベルの利用客数だったのが1964年から増加し1970年頃には1000万人くらいになっています。1964年に海外旅行が自由化されたことも1964年以降の利用客増加に関係しているそうです。

 

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羽田空港の機能の限度

 

増加していく航空機発着の需要に応じるため、羽田空港も滑走路を延長したり、航空機を駐車して、旅客の乗り降り、貨物の積み降ろし、給油、点検などをおこなうために必要な場所を増やしたりと努力をしました。しかし急増する航空機発着の需要に将来対応するのが限界になってくると予想されていました。羽田空港の滑走路をさらに増やすことは東京湾の港の運営にも支障が出てしまうため難しく、羽田空港の発着便数が更に増加していくのはアメリカ軍の使用区域との調整上、制限もあってやりにくいことなどがあり、多少受け入れ態勢を増やすことが出来ても今後の急激な需要の増加には応じきれないという見方が強かったようです。

 

建設候補地

 

そのような事情もあり首都圏に近い場所に新たに空港を建設せざるを得ないという方針が出され、新たな空港建設候補地として複数の場所が検討されることになりました。千葉県は3か所、実際に建設された成田市と現在の富里市や現在の浦安市沖の埋め立て地、茨城県にある霞ヶ浦沖の埋め立て地、神奈川県横浜市沖の埋め立て地、計5か所ほどの候補があったそうです。建設用地の入手が比較的進めやすいと見込まれたこと、建設にあたっての技術的な問題が他の候補地に比べて少ないなどの理由で最終的には千葉県の成田市に空港を建設することが決まりました。1966年に建設地が決定されています。しかし建設用地のための買収についてはうまく進まず、地元の方々からの反発も多く、共産主義を信奉する過激な団体が空港建設反対活動に加わり、国側との衝突が深刻なものとなりました。

 

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今回は成田空港の建設に関して一部取りあげました。成田空港を利用したことはありまんが、空港建設に関して大変強い反発があったという話は耳にしたこともあります。地元の反対にもかかわらず、空港建設をなぜ国が進めていったのか理由を確認したく、最近扱っている記事とは少し時代がずれてしまいましたが、記事にしてみることにしました。羽田空港だけでは利用者の需要を処理しきれないので新たな空港を作って対応するしかないという国側の事情はやむを得ないものがあると感じます。60年代後半の利用者数の増加は調べてみると国側が予想していた通りの急激な伸びを示していました。高度経済成長の時期と重なっていて経済的にも余裕が出て海外旅行に行く人、国内の移動で航空機を利用する人が増えたということもあるのでしょうか。じゃあ新しい空港を作ろうと言っても、新たな施設を作るために地元で生活している方々とどうやって折り合いをつけるかというのは本当に難しい話です。成田空港の建設は公共の利益と個々人の権利が衝突した典型的な出来事の一つなのでしょう。成田空港の場合は国の方針が断行されていきました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

日本の発展で膨れ上がる需要に対応しようとした他の件の話「1960年代日本政府が原子力発電を推進した理由は?」はこちらです。

運輸面で似たような事情があった他の件の話「東海道新幹線が建設された理由は何だったのでしょう」はこちらです。

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