古墳のある場所に埴輪が置かれていた理由は何なのでしょう

古墳に埴輪が置かれていた理由

古代の日本に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では古墳に埴輪が設置されていた理由について私なりに書いてみたいと思います。埴輪(はにわ)というのは日本に存在する古代の巨大なお墓、古墳(こふん)の中などから出土する焼き物の一種で様々な形の埴輪が存在しています。管状の埴輪や上にパラボラアンテナが付いているような形の朝顔形埴輪(あさがおがたはにわ)というものもあるそうですし、人の形をしたものや家の形をしたもの、動物をかたどったものなどもあります。たくさんの古墳でこのような焼き物が確認されているようなのですが、なぜ古墳にこのような焼き物が置かれていたのでしょう。古代の日本で作成された歴史書によれば道連れとして「いけにえ」にするような人々を出さないようにするためといったことが説明されているそうです。ただそれが理由だと辻褄が合わないと主張する意見もありまして、境界の役目とか土砂のせき止め目的、儀式に利用されたなどなど様々な理由が推測されています。

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日本書紀によれば

歴史的事実と合わないよという意見が多いようですが、歴史書でわざわざ埴輪が作られるようになった話が書かれているということもまた事実です。第11代目の天皇、垂仁天皇(すいにんてんのう)の頃のお話なのですが、垂仁天皇の皇后さまがお亡くなりになってしまいました。それまでの日本の世の中では政権の重要人物が亡くなった場合、重要人物を弔うだけにとどまらず、死んだ人の道連れとして特定の人々を生き埋めにしていけにえにするという現代の価値観では肯定のしようのない恐ろしい習慣が存在していたようです。垂仁天皇の皇后さまが亡くなった際も道連れとする人を生き埋めにするのが普通の対応ということになるのですが、天皇に仕える方で野見宿禰(のみのすくね)という方がおり、このかたが垂仁天皇に人々を生き埋めにする代わりに焼き物を墓に立てるようにすることを進言されたのだそうです。この野見さんの進言が採用されて人々が生き埋めにされなくなり代わりに埴輪が設置されるようになった、そういったお話になっています。しかしそれ以前から埴輪が存在しているという事実が提示されて生き埋めの回避が理由という日本書紀にある話は専門家の方々から本当の理由とはみなされていないようです。

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理由とされている他の説

埴輪が置かれた理由として他によく指摘されるものとしては古墳の境界に埴輪を設置することによって埴輪があるところから内側はみだりに立ち入るべきではない重要な場所であることを示す役割があったという説もあるようですし、お墓が造られた後に期間を経て天候などによって古墳に積み上げられた土砂が崩れてきてしまうのをせき止めるために埴輪が置かれたのだろうという見方もあります。その他にも亡くなった方の魂が生まれ変わることを願って人型の埴輪が置かれたとか、亡くなられた時におこなわれた儀式のために設置されたものだろうといった指摘もあるようです。このように複数の説があり、埴輪が設置された理由は現状ですと一つに定まっているわけではありません。

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今回は埴輪が古墳に置かれた理由について一部取りあげました。見解が一つに定まっているわけではなく複数の見方を紹介する程度のことしか出来ませんが、個人的にも何でああいったものが古墳に置かれていたのか理由が知りたく今回のようなテーマの記事にしてみました。今回の記事を作ることがきっかけで日本書紀の野見さんのお話を初めて知りました。生き埋めにする、つまり道連れとして人の命を奪う残酷な習慣を終わらせたという逸話なわけですから、埴輪に関する歴史的事実(野見さんが進言する前から埴輪はありましたという事実)と異なるからという理由でこの野見さんのお話を否定してしまうのももったいない気がしました。しかし生き埋めにされていた立場の人たちというのは本当に気の毒ですね。人々を巻き添えにしてしまえるくらい古墳を建造し埋葬される人物というのは大変な影響力を当時持っていたということを示しているということなのでしょう。昔テレビで埴輪を主人公にして面白おかしく演出されていた番組があったなぁなどと思い出しながらこの記事を作っていましたが、そういったふわふわした優しいイメージとは違って実際の埴輪にはもっと切実な背景があったのかもしれません。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

家康さんが日光に神社を造らせた理由について触れている話「日光東照宮が現在の場所に造られた理由は何だったのでしょう」はこちらです。

新しい都に移動した理由について触れている話「平安京に朝廷の拠点を移したのは何が理由だったのでしょう」はこちらです。

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