生麦事件とは?発生した年号や場所、なぜ発生したかについて

生麦事件が発生した年号

 

生麦事件(なまむぎじけん)は西暦1862年、当時の元号で表現すると文久2年にあたりますがこの年の、現在の暦で9月(昔の暦では8月です)に発生しています。

 

生麦事件が発生した場所

 

生麦事件は神奈川の生麦村(なまむぎむら)で発生しています。この地名から事件の名前が生麦となりました。生麦村は現在の神奈川県横浜市鶴見区にかつて存在した村です。

 

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生麦事件はなぜ発生したのでしょうか

 

生麦事件は薩摩藩の島津久光(ひさみつ)さんが道を通っていたときに、通りがかった通行人のイギリス人が薩摩藩のお侍さんに斬られたという事件です。

なぜ薩摩藩のお侍さんは通りがかりのイギリス人を襲ったのでしょうか。当時島津さんのような大名に準ずるような立場の方は多くの家臣を伴って行列を作って移動するならわしでした。この時も慣例通り行列が道を進んでいました。その時に移動していた道の向こうにたまたま馬に乗ったイギリス人が複数名いました。イギリス人たちは島津さんと逆の方向に進んでいたためどちらかが道を譲らなければなりません。当然位の高い薩摩藩の殿様の父上(久光さんのことです)が通行するのですから、当時の慣習では通行人は久光さんの一行に道を譲ります。しかし現場にいたイギリスの人たちはそういう慣習を全く理解していませんでした。おまけに久光さんの行列の先頭にいた薩摩藩士が急いでイギリス人たちに「どけろ。馬から降りて道を譲れ。」と言っても言葉が通じなかったのです。

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不幸な条件が重なって、イギリス人たちは道を譲るでもなく行列とイギリス人の集団が入り交じることになってしまいました。この時にイギリス人の振る舞いをとんでもない無礼な行為と解釈した薩摩藩士がイギリス人を斬りつけてしまいました。

その結果、薩摩藩のお侍さんが一人のイギリス人をあやめてしまい、二人のイギリス人に怪我を負わせてしまったのです。

行列がどこそこの道を通過するということをきちんと外国人に通知していなかったことで幕府はイギリスから追及され謝罪と巨額の賠償金(当時の10万ポンドだそうです)を求められました。賠償金を払うかどうかで幕府内は非常に揉めたそうです。怖いことにイギリスの要求を認めるよう他の国も幕府に圧力を加えました。軍艦を横浜に航行させるという方法で。結局幕府がイギリスに賠償金を払い幕府と諸外国との間で戦闘が起こらずに済みました。しかし薩摩藩とイギリスの間では穏便に片付いたわけではありませんでした。

 

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前に久光さんの文久の改革を調べて記事にしてみましたがその後このような重大な事件が起きていたのでこの生麦事件についても調べてみました。異国で言葉や慣習が理解できない場合、巻き込まれてとんでもないことになってしまう場合もあるのですね。もし他国に行くような場合には十分に注意しなければならないのではないでしょうか。この事件で教訓とするべき点なのかもしれません。

幕府の対応によってはこの事件がきっかけで、イギリスなど諸外国と幕府は戦争になっていたかもしれないわけです。戦争になれば軍事力に大きな差があったことでしょうから、幕府が負ける可能性が高かったでしょう。そうなればもっと巨額のお金を賠償金として外国に支払ったり日本の領地を一部譲らなければならなかったかもしれません。考えただけでも恐ろしい・・・。幕府内や他の藩では賠償金支払いに反対の意見も多かったようです。穏便にことを済ませた幕府の高官の方は非常に賢明な対応をしたということになるのではないでしょうか。

薩摩とイギリスの間でその後どうなったかについてはまた別の記事で扱ってみようと思います。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

島津久光さん関連記事「島津久光の行動が契機となった『文久の改革』の内容とは」はこちらです。

島津久光さん関連記事「なぜ薩摩藩の実力者、島津久光さんは倒幕を選択したのか」はこちらです。

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