満州国とは?建国の経緯や満州国での日本軍の権限についても

満州国とは

 

満州国(まんしゅうこく)とは西暦1932年の3月に中国大陸の現在の遼寧省(りょうねいしょう)、吉林省(きつりんしょう)、黒竜江省(こくりゅうくしょう)、内モンゴル自治区東側の一部の地域に渡る領域に誕生した国家です。1945年の8月に統治する領土を失いました。遼寧省、吉林省、黒竜江省といった地域は現在中国大陸に存在する国、中華人民共和国では「中国東北部」と呼ばれていますが、戦前は満州と呼ばれていました。東三省(とうさんしょう)などという呼び方もあったようです。この国では清を統治していた女真族(じょしんぞく)や漢民族、日本民族、朝鮮民族、モンゴル民族(蒙古民族)の人たちが生活していました。人口比は1940年頃ですと約85%が漢民族、約5.8%が女真族(満州民族)、朝鮮民族が3.4%、蒙古民族が約2.3%、日本民族が1.9%といった割合だったようです。ということで圧倒的に漢民族の割合が他の民族の割合を上回っていました。この国の首都は現在の吉林省の中心都市である長春(ちょうしゅん)に置かれ、名前は新京(しんきょう)と定められました。1932年から1934年までは民主共和政だったようですが、1934年3月からは清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)さんが皇帝に即位され帝政の国となりました。1932年から1934年2月までの期間も溥儀さんは執政(しっせい)という名前の元首ではあったようです。日本を始め他国の資本が入り重工業が発展した時期もありました。1945年8月にソビエト連邦が満州国領土内に侵攻し占領してしまったことで満州国は統治する領土を失い、その後この地域を中華人民共和国が自国の領土と主張し、中華人民共和国による支配が現在に至るまで続いています。

 

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満州国建国の経緯

 

この地域を1932年まで支配していたのは漢民族の張学良が率いる武装勢力、奉天軍閥(ほうてんぐんばつ)でした。奉天は現在の遼寧省の中心都市、瀋陽(しんよう)の以前使われていた地名です。関東州(かんとうしゅう 日本が租借、借りている遼東半島の先端地域や日本政府の関わっている会社、南満州鉄道株式会社に所属する土地を合わせて関東州と戦前は呼んでいました。)に駐留し、日本の権益を守っていた日本の軍隊、関東軍(かんとうぐん)が当時中国大陸の大部分を勢力下におさめていた中華民国からいわゆる満州地域を分離させ、満州地域や内蒙古東部に存在する日本の権益を守る目的で、1931年9月に柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)を自作自演で発生させ、奉天軍閥による爆破事件であると声明を出し、奉天軍閥を攻撃しました。その結果満州事変となります。朝鮮半島からの増援も得て関東軍は満州地域の主要都市を次々と占領し、1932年の2月には満州北部の主要都市、ハルビンも占領しました。その情勢の中、日本の軍中央は軍内部にあった満州、内蒙古地域の日本領有案を退け、新国家を建設する考えでまとまったそうです。日本が占領したそれぞれの地域では奉天軍閥と対立していた複数の勢力が政権を作り統治をしようとしていましたが、その諸勢力が協議し1932年の2月中旬に東北行政委員会が立ち上げられ、かつては張作霖のもとで奉天軍閥の有力者であった張景恵(ちょうけいけい)という人物がトップとなりました。この時期張景恵は奉天軍閥の当時のリーダー、張学良や中華民国の大部分を支配していた国民政府との関係を断っていたそうです。この東北行政委員会は中華民国国民政府から離れ独立することを宣言しました。この委員会はその後天津の日本租界で亡命生活をしていた清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀さんを国の元首、執政として迎え満州国建国を宣言します。日本の関東軍も当然この過程で関与していました。

 

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満州国での日本軍の権限について

 

満州国のトップは元首である執政です。そしてこの国の行政、政治を担当したのは国務院(こくむいん)と呼ばれる部署でした。国務院のトップは国務総理という役職です。この国務総理を補佐する役割を果たすために総務庁という部署が作られました。この総務庁が実質的に国を運営していたと言われています。そしてこの総務庁のトップは総務長官という役職でした。満州国が出来た時総務長官に就任したのは関東軍特務部長の駒井徳三という人でした。当時満州国政府の役人として日本人がたくさん働いていたそうですが、この日本人職員を任免したり指揮していたのは関東軍のトップ、関東軍司令官だったそうです。ということで満州国運営の方針を決める強い影響力を日本の軍隊である関東軍が持っていたことになります。もちろん満州国の役人には日本人以外の民族の人たちもたくさんいました。

 

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今回は満州国について取りあげてみました。柳条湖事件が発生し、満州事変が始まって半年くらい経過したころの話です。血盟団事件が起きたのと似たような時期になりますし、日本がかなり御膳立てをして日本の領土ではない地域に国家を作ったということのようですから、歴史的にはかなり重要な出来事でもありますので、この時点で記事にしてみることとしました。満州国自体は名前もこれまで聞いたことがありますし、溥儀さんが皇帝だったこともなんとなく知ってはいました。ただ、相当昔の話で自分との関係はほとんど無いと思っていました。建国直前の関東軍の行動を見ても、所詮自分ら(日本国のこと)の都合のために言いなりになる国を作っただけだろうという印象もありました。しかし調べていて満州国の統治自体が住民にとってそれほど悪いわけでもなかったという意見に触れる機会もあり、意外な気がしました。建国以前に比べ治安が大変良くなったとか徴税が複数回課せられることも無くなったとか、そんな満州国の存在していた時代を懐かしむ話もあるようです。終戦から70年もたっているので私には実態はうかがい知れないですけれど。建国までの過程で関東軍が柳条湖事件を起こしたり、朝鮮半島の軍司令官が天皇や軍中央の許可を得ずに朝鮮半島に駐留していた軍を勝手に動かしたりしたことを肯定する気には到底なれませんが、もし現地の人々が満州国の存在していた期間、平和を享受出来ていたというのなら満州国という国家に存在意義が全くなかったとは言えないのかなという気もします。ちょっと話がずれますが満州国臨時政府という名称で活動をしている人たちがいることを今回のテーマを調べていて初めて知りました。そういう活動を現時点でしている方たちがいるということを知って本当に驚きました。たぶん今回の記事を作らなければ、そのような方たちの存在を知ることも無かったでしょう。記事を作成したことで得た収穫の一つでした。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

満州と日本の間の条約に関する話「日満議定書とは?関東軍関連の内容や当時の内閣についても」はこちらです。

満州をめぐる戦闘に区切りをつける話「塘沽停戦協定とは?協定の意味やなぜ成立したかについても」はこちらです。

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