八幡製鉄所とは?設立された理由や現在の状況についても

八幡製鉄所とは

 

八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)は西暦1897年(明治30年)に設立され1901年から操業が始まった日本を代表する近代的な製鉄所です。

これまでも日本で鉄が作られてはいましたが、低い温度で鉄を作る技術が主流でした。しかし欧州の技術を導入し高い温度によって品質の高い鉄を鉄鉱石から取り出すことを目的とした製鉄所が岩手県釜石に作られます。1880年に国が運営する釜石の製鉄所が作られました。しかし鉄をきちんと生産することが出来ず、三年後に廃業となってしまいました。製鉄所はそれから民間会社に払い下げられます。製鉄所を買い取った民間会社は度重なる失敗の末、1886年から鉄の生産を滞りなく出来るようになりました。釜石鉱山田中製鉄所(かまいしこうざんたなかせいてつじょ)という名前の製鉄所です。

八幡製鉄所はこの田中製鉄所に続いて設立された製鉄所でした。設立された場所は福岡県の当時八幡村(やはたむら)と呼ばれた所です。この場所は現在の福岡県北九州市の八幡東区(やはたひがしく)にあたります。

八幡製鉄所の高い温度の環境を作る設備、高炉(こうろ)などを担当したのはドイツの企業でした。(釜石の製鉄所の場合は日本で初めて欧州方式の高炉を作ることに成功した大島高任(おおしまたかとう)さんの指揮で製鉄を行うかイギリス人技師が提案したイギリスの技術で製鉄を行うかで議論となったそうですが、最終的にイギリスから高炉を含めたすべての設備を輸入し操業する結果となっています)

八幡製鉄所は日露戦争以降特に鉄の生産量が増加し、1913年頃は日本で作られる銑鉄の約7割という大変大きな生産割合を占める製鉄所へと発展していきます。銑鉄(せんてつ)というのは高炉など高い温度の環境によって鉄鉱石から取り出される鉄のことです。

日本の産業が発展していくにつれて鉄の需要は増えていき、鉄鋼業は日本にとって不可欠な存在でしたが、八幡製鉄所はその日本の鉄鋼業の中で重要な位置を占め、明治時代以降産業界の期待に応えてきました。

 

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八幡製鉄所が設立された理由

 

上記の通り日本の産業が発達することによって多くの鉄が必要となっていきました。明治初期日本には大量の鉄を生産する工場は無かったため、必要な鉄は当時輸入に頼っていたわけです。

しかし日本の産業がさらに発展した場合、必要となる鉄の量は更に増加していくことが考えられ、それをすべて輸入に頼ることは貿易上で赤字が増えることになり当時の明治政府にとっては決して好ましいことではありませんでした。貿易赤字が増加し続けるというのは、日本国全体としては他国から得る収益よりも他国へのお金の支払いが多い状態が拡大するということですから、日本国の富がより多く国外へ流出することになってしまいます。そのため鉄を国産にすることは政府にとって経済上意義のあることでした。

また鉄は産業の発展だけに必要となるものではなく、軍備を整えるためにも必要でした。八幡製鉄所が設立された1897年、操業が開始された1901年といった頃は欧米列強の一角ロシア帝国との対立が深まっていた時代ですので、ロシアと戦争となった場合にも対応できるよう軍備に必要な物資をしっかり供給できる体制を整えておく必要がありました。

以上のような理由で国産の鉄を製造する必要があったわけですが、期待を背負った製鉄所が新たに福岡県に作られたことについても理由がありました。近くに鉄を作るのに欠かせない資源である石炭を供給できる場所があったこと、輸入されてくる鉄鉱石を利用するのに福岡県は都合の良い場所だったということ。そのような理由が挙げられます。

八幡製鉄所は上記の通り福岡県北九州市に存在しますが、福岡県には筑豊炭田が存在します。石炭を近隣から手に入れることが出来るのは輸送にかかるお金が安く済み、好都合でした。また鉄鉱石は中国大陸の鉄山から輸入せざるを得ませんでした。鉄鉱石が輸入される港の近くに製鉄所があればこれも鉄鉱石の運搬にかかる経費が安く済み好都合です。

 

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八幡製鉄所の現在

 

国が運営していた八幡製鉄所は1934年に日本製鉄という会社になりますが、戦後に会社は解体されます。八幡製鉄、新日本製鐵など製鉄所が所属する会社は変わっていきましたが八幡製鉄所での稼働は続きました。

大手鉄鋼メーカーに所属し八幡製鉄所は現在板状の鉄鋼や管上の鉄鋼の生産が行われているそうです。

2015年には明治時代に発展した鉄鋼業の文化遺産として八幡製鉄所の一部の施設(1900年に建設された修繕工場や鍛造品を作る工場など)が世界遺産に登録されることとなりました。製鉄所の見学も盛んに行われているようです。

※鍛造(たんぞう)は鉄を叩いてより強くする、鉄の品質を高めるための作業です。その作業を行う時に鉄を叩く道具が必要となりますが、それを鍛造品(たんぞうひん)と呼ぶのだそうです。

 

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今回は八幡製鉄所について取りあげてみました。明治時代の産業発展の中からテーマを選びたいと思いましたが、明治時代の産業の中で八幡製鉄所の設立は有名な出来事として挙げられることの多い話でしたし、私にとっては日清戦争の賠償金で作られた製鉄所という理解しかなく、なぜあの場所、あのタイミングで作られたのかについてはよくわからなかったこともあって調べてみたく取りあげた次第です。

調べていて八幡よりも早く釜石で鉄の生産が行われていることを初めて知りました。日本で初めての近代的な製鉄所は八幡製鉄所だとばかり思っていましたがそうではなかったんですね。しかも釜石鉱山田中製鉄所の場合は国が運営して失敗し民間企業となってから鉄の生産に成功したというのですから大したものですね。

また、八幡の場合は産炭地に近いとか輸入鉄鉱石を利用しやすいという利点があることも今回知ることが出来ました。

日本に鉄鉱石を大量に産出する鉱山があって、輸入される鉄鉱石に頼る必要が無ければ、おそらく鉄鉱石を産出する鉱山の近くに大きな規模の製鉄所が出来たのでしょうね。現在の日本も鉄鉱石については輸入に頼っています。現在はオーストラリアが輸入相手としては最も大きな割合を占めているようですね。5割ほどのようです。その次がブラジルで2割強と言ったところのようです。明治当時は中国大陸が輸入先でしたが時代が変わり輸入相手もだいぶ変化していますね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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