大日本帝国憲法を改正することになった理由は何なのでしょう

大日本帝国憲法を改正した理由

 

現在の日本国の憲法である「日本国憲法」は第二次世界大戦の主要な戦闘が終わった8月以降、連合国軍が日本を占領した状態の中で改正案が作られ、日本国の当時の議会、帝国議会でいくらかの修正を加えられた後に承認され誕生しました。西暦1946年11月に憲法が新しい内容に変更されました、日本国憲法になりましたと公(おおやけ)に示すことを意味する公布がおこなわれ、今の日本国憲法が実際に使われるようになった、施行されたのは1947年の5月です。連合国軍の日本占領は1952年の4月まで続きます。そのため日本国憲法の公布、施行は共に連合国軍の占領下でおこなわれていることになります。もともと日本国には大日本帝国憲法という先人たちが作り上げた憲法が存在していました。その憲法の内容を「改正」するという形式で日本国憲法は誕生しています。なぜ元々存在している憲法の内容を改正することになったのでしょう。その理由はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から日本側に対し憲法の内容を変更する必要があるという考えが伝えられたからです。もう少し具体的に言いますとGHQトップの連合国軍最高司令官、マッカーサーという人物が1945年の10月に日本側の要人と面談し日本国の憲法の内容を改正する必要があり、自由主義的な内容がしっかり入っていなければならないという考えを示しています。

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10月4日には当時の政権、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣の大臣だった近衛文麿(このえふみまろ)さんがマッカーサー司令官と面談しその時に先ほど書いたような内容を司令官が近衛大臣に伝えています。また新たに総理大臣になった幣原喜重郎さんが10月11日にマッカーサー司令官と会談をおこなった時にも司令官はポツダム宣言の実現のために、日本国民が長年にわたって言いなりとなってきた日本の伝統的な社会の秩序は正しく変えられる必要があり、その為にも当然日本の憲法に自由主義の考え方が盛り込まれるべきだといった内容の考えを示しています。日本の二人の要人に対して憲法を自由主義的な内容に変更する必要があるという考えを示し、司令官は日本側に自主的に憲法の内容を変更させようとしました。憲法を改正せよという明らかな命令、指令が書かれた文書がGHQから日本政府に対して出されたというわけではありませんでした。それとは異なる形式、やや回りくどい意思表示です。強い拘束力があるというわけではないのでしょうが国際的な約束事があるそうで、ハーグ陸戦条約という国家間の条約はその一つなのだそうですが、その条約の付属書の中に第43条として、占領している側は絶対的な支障がない限り、占領されている国の既に存在している法律を尊重しなければならないといった内容が入っているそうです。連合国側は既に存在している日本の憲法を尊重しなければならないということになりますので、連合国側が最初から高圧的に「憲法を変えろ」と命令することははばかられたということなのかもしれません。

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幣原首相に対してマッカーサー司令官が憲法の内容を変える必要があるという考えを伝えた時にポツダム宣言の実現といった表現が含まれていました。1945年の7月にアメリカ、イギリス、中華民国蒋介石政権の三者が共同で表明した宣言で、その後ソ連も参加することとなるポツダム宣言の中には13の項目が書き連ねてあり、その項目の中の一つには日本国民による民主主義的傾向の復活を強化すること。そしてそれを妨げるような要素を取り除くべきといったことや言論の自由、宗教の自由、思想の自由や基本的人権を尊重することは確保されなければならないといった内容が書かれており、別の項目には日本国民が自由な状況で意思表示したことによって成立した政府、平和的な政府を立ち上げることを求めるといった内容も書かれています。司令官は幣原首相との会談の中で「ポツダム宣言の実現」と言っていた意味の中にはこういった内容が含まれていたということになります。こういった連合国側の働きかけがあり日本側の憲法内容の変更への取り組みが加速していくことになりました。大日本帝国憲法の改正の理由は主に連合国の主要国が作ったポツダム宣言の実現のためということと、その実現を任されていたGHQが日本側に対して憲法内容の変更が必要だという考えを示す形ではたらきかけをおこなったからということになります。

 

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今回は日本の憲法が改正されることになった理由を取りあげました。戦後の出来事の中で日本の憲法が変更されたというのは当然重大な話ですし、憲法を変更したきっかけをそもそもよく知らなかったこともあり、確認してみたくこのような記事を作ってみました。戦争に負けた後だから圧力をかけられたことで日本側は憲法を変えたという予想はしていましたが、大まかに言えば結局はそういうことのようです。自発的な憲法内容の変更も政府内で検討する動きが無かったわけではないそうですが、憲法を変える話が具体化、進行したのはやはり連合国からのはたらきかけがあったからでした。ただ、どういう理由で憲法の変更が必要だと連合国側が考えていたのかをこれまで知ることはありませんでした。自由主義的な考えを憲法に入れたかったという話やポツダム宣言の内容に由来するという話を今回初めて知りました。自由主義的というと漠然としていますが、ポツダム宣言にある言論、宗教の信仰、思想の自由や基本的人権の尊重といった文言はより具体的です。そういった自由や人権の尊重は一定の制約が必要かもしれませんが無ければ困るなと思います。ですので戦争をした相手から要求されるというのはとても不本意ですが自由や人権に関する項目を憲法に盛り込むというのは、私は当然必要だと思う立場です。大日本帝国憲法のもとでは民主主義的傾向の復活、強化や今出てきた様々な分野の自由や人権の尊重、国民が自由に意思表示することで政府をうち立てるといったことが出来ないものなのかどうかという点については私には難しいので意見を述べることは出来ません。ただ高名な憲法の学者である美濃部達吉さんはこの憲法改正の際、大日本帝国憲法のもとでも民主主義的傾向の復活、強化は可能との考えを示され、占領下での憲法の変更に反対の立場をとられていました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

大日本帝国憲法の天皇の権限に関して触れている話「大日本帝国憲法によって定められた天皇大権とは?」はこちらです。

美濃部達吉さんの主張、天皇機関説について触れている話「美濃部達吉がとなえた天皇機関説とは?天皇主権説についても」はこちらです。

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