日本人学童排斥事件(隔離事件)とは?日本人移民排斥運動についても

日本人学童排斥事件(隔離事件)とは

 

日本人学童排斥事件(隔離事件)(にほんじんがくどうはいせきじけん(かくりじけん))は西暦1906年(明治39年)にアメリカのカリフォルニア州のサンフランシスコ市で発生した出来事です。

市の教育委員会が日本人の子供たちに関しては普通の公立学校を利用することを認めず、東洋人学校という別の学校に通学するようにという規則を作りました。これまで日本人の学童も公立学校を利用できていました。しかし唐突にこのような規則が出来てしまったことについてサンフランシスコ市側は、地震による災害によって学校施設も被害を受け日本人の学童に教育機会を提供できる余裕が無くなった、といった理由で正当化したようです。

スポンサーリンク

この地震についてですが、1906年の4月にサンフランシスコではサンフランシスコの近くに存在する断層を震源としたマグニチュード7を超える大きな地震が発生しています。米国の歴史の中でも特に被害の大きな災害として有名な出来事なのだそうです。サンフランシスコ市内のたくさんの建物が壊れ20万人以上の人たちが住居を失いました。亡くなられた方は数千人に上るという指摘もあります。排斥事件からそれ程時間を遡らない時期にそのような大災害が発生していました。

とはいっても公立学校に通う日本人の子供達は公立学校に通う子供たちの中で大きな割合を占める存在ではありませんでした。0.4%弱といった程度です。また市側が通うように勧めた東洋人学校は近辺が地震による火事で人もおらず、治安が悪い地域となってしまっており電車や運搬車による事故に遭遇する心配も保護者にはあったそうです。そのような地域に通学するのは無理だということで日本人学童の父兄は市側の方針を拒否し東洋人学校に通わせず、大半の日本人学童は個人的に契約した教師から教えてもらうことにしたようです。

このサンフランシスコ市の動きに現地の日本人たちは人種差別に基いた対応だと疑って反発したそうですし、日本政府も抗議しました。しかしそれだけではなく米国の連邦政府もサンフランシスコ市の対応を問題視したそうです。色々なところから反発が出たこともあったためか、この市の方針は半年ほど後に取り下げられます。それによって日本人の子供たちが公立学校にまた通学出来るようになりました。

 

スポンサーリンク

日本人移民排斥運動について

 

19世紀の半ばアメリカで金の採掘が盛んになったことがきっかけで中国大陸からたくさんの人たちが移民しました。1870年代にカリフォルニア州の人口の10%弱の割合にまで中国大陸系の人たちの数は増加します。この動向を白人側は危険視して、米国では中国大陸からの移民を禁止する規則が設けられました。

中国大陸からの移民が禁止され、その代りに日本からの移民が増加します。1880年代後半以降その傾向が強まっていきました。特に日露戦争が終了した後日本は不景気となり経済的な理由で米国に移民したがる日本人は増加したそうです。

桂ハリマン協定が破棄された1905年頃、米国では対日感情が悪化したようでカリフォルニア州を中心にアジア系の人たちを排斥する団体が作られ、日本人を追い出そうという運動を始めたそうです。米国社会の慣習に合わせようとしないとか安い賃金で働くことを嫌がらないため他の人種の雇用契約を悪化させているなどの理由を主張していました。この動きは他の米国西海岸側の州やカナダにも波及していきます。日本人の業者をボイコットしたり、住むための部屋を借りようと思っても日本人に貸してくれるところが全然なかったのだそうです。上記しました1906年のサンフランシスコでの震災時には日本人にとって不都合な噂も飛び交ったそうです。

1907年にはサンフランシスコで反日暴動が発生しました。被害に遭った日本人の中には死亡者も出ています。日本人が経営している店舗を襲撃し施設を破壊し日本人に暴行し家財道具などを奪い去るような行動が頻繁に行われたそうです。しかし米国の治安機関は現地の日本人側が満足するような対応をしてくれなかったようですね。このように米国内で日本人に対する差別、虐待が横行していたことが20世紀初頭にはありました。

 

スポンサーリンク

今回は米国における日本人排斥の動きを取りあげてみました。中国大陸のいわゆる満州地域を巡って日米関係が急に悪化したという時期があったそうで、その頃アメリカでおこった出来事を確認してみたく今回の出来事を取りあげた次第です。学童全体の0.4%しかいない日本人の学童を震災後教育施設が減少したことを理由に東洋人学校に追いやるというのは、説明としては無理があるかなという気はしますね。日本人であることを理由に地元の住民から嫌がらせや襲撃に遭ったという話を聞くと、よくそんな環境でアメリカでの生活を継続したものだなと日本人移民の人たちのたくましさに驚かされます。

このような話は米国に限らずカナダでも起きたということですから、移民のような形で別の社会に入った場合、多かれ少なかれ少数派は多数派に虐待されてしまうものだということなのかもしれません。もちろん差別などいいはずがありません。それを前提として、別の社会に移り住むと、このような危険性があるものなのだということは知っておいて損は無いのかなという気がしました。

また米国への日本人の移民は日露戦争終了後景気が悪くなったとき特に増加したと先ほど書きましたが、国家経済の安定というのは本当に重要なのだなと思いますし、たとえ負けたわけではなくても戦争の後には不景気が来てしまうことがあるものなのですね。日本を出て行かなければならない日本人が多数出てきてしまうような時代が今後来てしまわないよう、経済安定のために政治家の方々にはしっかり活躍してもらいたいものです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

日米険悪関連記事「桂ハリマン協定(覚書)とは?協定の破棄された理由についても」はこちらです。

邦人受難関連記事「済南事件(さいなんじけん)とは?この事件の原因についても」はこちらです。

関連記事

最近のコメント

    ページ上部へ戻る