山本権兵衛内閣の時に起きたジーメンス事件(シーメンス事件)とは
ジーメンス事件(シーメンス事件)とは
ジーメンス事件(シーメンス事件とも呼ばれます)とは西暦1914年(大正3年)に明るみとなった事件です。簡単に言えば海軍で使われる物資を納入していたジーメンス(シーメンス)という会社が海軍に所属する高官らに賄賂を贈り高官側がそれを受け取っていたというものです。
疑惑が生じた時に当時の海軍大臣は賄賂を受け取るような海軍関係者はいないと表明しました。しかし賄賂を日本海軍高官に送った証拠を手に入れた人物がそれを使ってジーメンス社からお金を脅し取ろうとしたためドイツで逮捕されます。その人物のドイツでの裁判を通し賄賂の事実が裁判所から公表され、マスコミが取り上げる結果となり、結局海軍の高官が賄賂を受け取っていたことが真実であったことが判明してしまいました。
このため日本の国会では海軍に対する追及が強まっていきました。当時事件が起きた時期の内閣、山本権兵衛(ごんべえ)内閣の責任問題ということで、否決はされましたが内閣の退陣を求める決議案が衆議院で提出されるような有様でした。また海軍の腐敗と当時の内閣に対する批判が民衆の間でも強まり国会議事堂を民衆が取り囲む騒ぎにもなっています。
ジーメンス事件を発端に明るみになった海軍の汚職に対する議会や国民からの強い反発やそのような背景もあって国会で来年度の予算案を通すことが出来なかったこともあり山本内閣は総辞職する結果となります。汚職事件によって一つの内閣が倒れてしまうという大きな出来事でした。
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山本権兵衛内閣について
当時内閣を組織し政治を行っていた山本権兵衛内閣は大正政変(たいしょうせいへん)によって第3次桂太郎内閣が退陣した後に出来た内閣でした。大正政変は桂太郎内閣が発足した後に強まった第一次護憲運動の高まりによって結果的に桂内閣が短期間で退陣した出来事のことです。第一次護憲運動は陸軍や旧長州藩の勢力が政治を仕切る藩閥政治に反対し国民の意見を代弁する立場である議会の意見をもっと政治にいかすことを要求する運動でした。
桂内閣に対する国民の強い反発によって内閣が倒れ、代わりに誕生した山本権兵衛内閣はこの経過を重く見たということなのか、政党に配慮する政治を行いました。文官任用令という政府の高級官僚を登用する決まりを変えて政党関係者も高級官僚になることが出来るようにしました。
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また第3次桂内閣の前の内閣、第2次西園寺公望(きんもち)内閣は陸軍の望むだけの予算をまわさず陸軍に敵視され陸軍大臣のなり手が全く見つからず、結果陸軍大臣を擁立することが出来ずに退陣し大きな問題となりました。陸軍大臣や海軍大臣には現役の各軍の中将か大将が就任しなければならないという規則、軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)がこの西園寺内閣退陣に大きく関わりました。この現役武官制を山本権兵衛内閣で内容変更しています。現役の中将や大将だけではなく、現場を離れている予備役(よびえき)の中将や大将、軍を退いた退役(たいえき)の中将や大将も陸軍大臣、海軍大臣になれますよという内容に変更しました。
また海軍強化のための予算はしっかりつけようとしたものの、陸軍の兵員を増やす要求である二個師団増設要求は退け、大正天皇の諮問機関、枢密院(すうみついん)の人員削減などに象徴される予算額の抑制に努めようとしたことも有名なようです。師団は兵員の集団の単位です。また諮問機関というのは上役(この場合大正天皇)に対し意見を申し上げる機関という意味になります。
また山本内閣は衆議院内で大きな勢力であった政党、立憲政友会との連携を強め政治を行おうとしていました。
しかし山本権兵衛さんというかたは海軍の中で活躍されてきた軍人出身の方だったため、ジーメンス事件という海軍の汚職によって大変なダメージを受ける結果となりました。ただ汚職のことだけではなく新たな税負担案も国民から反対されてはいたようです。
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今回はジーメンス事件を取りあげてみました。当時は衆議院の大きな政党勢力と連携して政治を行おうとしていた山本政権だったのにこの汚職事件が大変な騒ぎとなって退陣に追い込まれることとなったのですから、やはり重要な出来事なのではないでしょうか。これまでの長州藩、薩摩藩といった藩閥勢力や官僚だけで政治を行う姿勢とは異なり衆議院内で大きな勢力となっていた政友会と組んで政治をしようとしていたことで国民から支持されていた内閣が汚職に対する国民の強い反発で倒れてしまうというのも何か妙な感じがします。
このジーメンス事件が明るみになった背後に陸軍と関係の深い、元老であり長州藩閥の有力者である山県有朋さんが関与しているという指摘もあるようですが実際のところどうなのか私はよくわかりませんでした。ただ山本内閣が山県さんと関係の深い陸軍の兵員増加要求に応じなかったり山県有朋さんも関わる枢密院の規模を縮小しようとしたりしていたので山本権兵衛さんと山県さんは対立する関係にあったのかもしれませんね。
山県さんが事件の表面化に関与していたとしますと山県さんの期待通りに国民や議会が反応し山本内閣を追い落とすことに成功したということになるのでしょうか。この事件に反発し盛んに抗議していた多くの国民や衆議院議員が結果的に山県さんによって踊らされていたということなら何とも悲しい話ですね。
このような汚職事件と言うのは背後を見ると時の政権担当者と政治的に対立する政治勢力が動いているということが場合によってはあるのかもしれません。そのような意図があるかどうかを明確に証明することは大変困難なのかもしれませんが。汚職事件を理由に実は国民にとって有益な政権を倒すことを国民側が手伝ってしまった。そんな構図はもしかしたら今後もありうるものなのかも。そんなことを考えた出来事でした。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
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